公開研究会「メガヒットアニメからみる現代社会-『魔法少女まどか☆マギカ』をめぐって」
9月28日に北九州市漫画ミュージアムで「メガヒットアニメからみる現代社会-『魔法少女まどか☆マギカ』をめぐって」(www.ktqmm.jp)という公開研究会があったので参加してきました。
- ミュージアム内は基本的に撮影禁止です。上記2点は撮影可能エリアで撮ったものとなります。
この日は名古屋のポートメッセなごやでまどか☆マギカ展の2日目が開催されており、私はそれに参戦していましたが、1日目と同様に開場は予定より40分早い9時20分頃だったので、展示エリアを1周だけして金城ふ頭駅9時44分発のあおなみ線に飛び乗り、名古屋からのぞみ17号で小倉駅には13時22分着。まどマギ展を約15分で退場するという綱渡り感はあったもののなんとか開始時間には間に合いました。
さて、今回の研究会は大学教授や博物館研究員などによる発表者がそれぞれの立場から「まどか☆マギカ」という作品、あるいはそれに至る漫画・アニメの歴史について語り、一般参加者も含めて質問、反論など自由に議論を行うというもの。
発表者は以下の5人です。
- 表智之(北九州市漫画ミュージアム 専門研究員) @miche_r
- 福島勲(北九州市立大学文学部 准教授)
- 濱野健(北九州市立大学文学部 准教授) @hatsiek
- 水口すみれ(北九州市立大学文学部 学生) @28o28o
- 須藤廣(法政大学大学院政策創造研究科 教授) @piropiropirory
- 須藤先生は司会も兼任。一般参加者は終了時に数えたところ私も含めて15人(たぶん)。
以下、それぞれの発表内容を記していきますが、要点だけをまとめたメモ書きを元に私自身の言葉も多分に含めているので、元の発言とは異なる箇所もあります。必ずしも正確なものではないのでご了承ください。
- “社会現象アニメ”(仮)の系譜と「魔法少女まどか☆マギカ」 (表智之)
- メガヒットアニメから見る現代社会~「魔法少女まどか☆マギカ」をめぐって~(覚え書き) (福島勲)
- 魔法少女の欲望と現代社会の位相 (濱野健)
- (タイトルなし) 水口すみれ
- 社会学者から見た『魔法少女まどか☆マギカ』 (須藤廣)
- 質疑応答的なもの
“社会現象アニメ”(仮)の系譜と「魔法少女まどか☆マギカ」 (表智之)
発表1番手の表さんからは、「なぜまどか☆マギカなのか(ヒットしているからなのか)」という観点で、1970年代以降の社会現象になったアニメについての紹介がありました。挙げられたのは以下の6作品です。
- 1972年 マジンガーZ
- 1974年 宇宙戦艦ヤマト
- 1979年 機動戦士ガンダム
- 1995年 新世紀エヴァンゲリオン
- 2006年 涼宮ハルヒの憂鬱
- 2011年 魔法少女まどか☆マギカ
それぞれの内容をいくつか抜粋します。
- 当初のロボットものは鉄人28号のように外から操作するものであったが、マジンガーZではロボに乗り込んで中から操縦する形態になった。
- ヤマト: ガミラスを滅ぼした後に「我々は戦うべきではなかった」という展開で、主人公側=正義という固定的な図式に対する懐疑が描かれている。
- エヴァ: キングレコードによる映像ソフトメーカーが放送枠を買い取るビジネスモデルが成立。
- エヴァ: 脱衣麻雀のように公式自らが二次創作を行うように。
- まどマギ: 最初に見せておいた構造が途中でがらっと変わり、2転3転する。
- まどマギ: (エヴァと比較して)1話ごとに真相に近づく。世界の真実が明かされる。
- まどマギ: 戦う主体同士の自己実現 → セカイ系からサバイバル系へ。
- まどマギ: 作劇やシリーズ構成にトリッキーなことが許されてる。
メガヒットアニメから見る現代社会~「魔法少女まどか☆マギカ」をめぐって~(覚え書き) (福島勲)
福島先生はしばらくアニメを見ない生活を送っていましたが、エヴァやハルヒで再び引き込まれたようです。先の表さんの発表の中で、「"社会現象アニメ" とは一体どうなった作品を指すのか」という定義についての問いが提示されていたのですが、その答えの一つとして、自身の体験から「一度離れてしまった人間を引き戻した」なら "社会現象" と言えるのではないかと仰っていました。
ジャンルの更新
覚え書きの中でまず最初に言われたのは「まどか☆マギカは "ジャンル" の更新を成し遂げた」ということ。「古典派」「移行期」「ポストモダン派」の3つについて次のような説明が成されました。
- 古典派: 少年はロボット、少女は魔法で世界に対する力を持つ(大人に対峙する)。「マジンガーZ」や「魔法使いサリー」など。
- 移行期: 主人公が迷いを感じる。「機動戦士ガンダム」など。
- ポストモダン派: 主人公が拒否する。「新世紀エヴァンゲリオン」でシンジがエヴァへの搭乗を拒否したり、「魔法少女まどか☆マギカ」で鹿目まどかが最終話まで魔法少女にならなかったり。
リアリズム
- 身体性の回帰: エヴァで出血や綾波レイの包帯・裸体が描かれる、まどマギでメインキャラクターが死ぬ。
- 現実とファンタジーをつなぐ: まどマギにおける現実的な生と死のある世界、「希望と絶望の相転移」、「(杏子の言う)食物連鎖」。
ループ(ゲーム的リアリズム)
コンピューターゲームが登場して斬新だったのは「レベル上げ」「リセットして元に戻れる」ということ。
TV版10話でのほむらの行為はそれまでの経験値を保ったまま繰り返すことでレベル上げをしてゆく、すなわち視聴者は暁美ほむらというキャラクターを通じてゲームをしているゲーマーのようなもの。
- 永劫回帰型(ニーチェ): 今ここにいる人生を未来永劫何度も繰り返してもいいですか。「いま100%幸せですか?」「人生を肯定していますか」という問い。押井守による「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」、あるいは「あずまんが大王」のような日常ものもこれなのでは。
- 螺旋階段型: ループはするけど現状が嫌だからループする。違う場所へ移動できる。まどマギの10話。
「叛逆の物語」は螺旋階段型から永劫回帰型への変化なのでは。
描画
蒼樹うめ先生によるまどマギのキャラクターはいわゆる「萌えキャラ」と言われるが、実は結構無表情なのでは。禁欲的なストイック。
感情
TV版最終話でまどかが概念になるというのは、脚本の作り方としては納得できる。
まどかが自分を犠牲にして世界を救ったことはキリストが世界に降臨するのと同じ。自己犠牲の精神が「宇宙戦艦ヤマト」における特攻のような感じがして昔の王道に戻ってしまったのかなと。杏子のさやかに対する行動についても特攻精神を感じた。
なので、「叛逆の物語」でのほむらの行動はよかった。
魔法少女の欲望と現代社会の位相 (濱野健)
濱野先生の発表資料は配付されなかったので、きちんと文章化することができず、現場でメモったほぼそのままの箇条書きです。発表を聞いていないと何のことか分からないかもしれませんがご容赦ください……。
- "社会" というのはコミュニケーションを繋げること。では文化とは何? → コミュニケーションのコード。
- 5人のキャラクターがそれぞれ異なるコードを持っている。
- 自分では自分自身を理解できない → 相手にとって自分はどうかという鏡のようなもので自分を理解する。
- 90年代→2000年にかけてコードがどう変化してきたか。
- まどか☆マギカがコミュニケーションとしてどう変化してきたか。
- まどか☆マギカを体験することは "消費" することである(たとえ金銭授受の発生しない無料コンテンツであっても)。
- 消費社会とは: 個人の消費活動が物質的な充足を超えて、個や人間関係を規程する社会的行為へと変化した社会。
- ものを作る: どれだけものを作ったか、生産する能力があるのか、それを通して誰と関わることができたか。
- ものを消費する: どれだけ消費して、それで人間関係を獲得できたか不安定。
- 消費するだけでなく2次創作やコスプレのように新しく生産を行う。受動的なものから生産的なものへと変化。
- 自分で生産して自分で消費する → 商品の水準が「社会的なもの」から「個人的なもの」へ。
- エヴァ → 自己準拠的。読み取ろうとする側のフラストレーションと(自分もそうだという)共感。
- まどかは全員とのコミュニケーションの回路を開くのではなく、コミュニケーションのレベルを上げた → コードを拒絶。 (※これはTV版最終話のことを指してのことだと思うが記憶が曖昧)
「叛逆の物語」におけるほむらの暴走
- まどかの忘却 → ほむらの実存への不安。
- 自分の欲望を投げかける、コミュニケーションの相手を失うことの不安。
- 「わたしと世界」→「わたしの世界」 (※わたし=ほむら)
愛と秩序の選択
- 秩序: 他者の欲望を受け入れる。
- ほむらの諦感。
ED後のシーン
- 月は半月 → 「自己準拠によって完結した世界」と「完結していない世界」の2面性を表しているのでは。
(タイトルなし) 水口すみれ
- たしか発表タイトルはなかったと思います。私の記憶違いだったらすいません。
北九州市立大学の学生である水口さんはコスプレーヤーでもあり、当日は暁美ほむらの格好をされていました。
コスプレ
- 魔法少女全員で合わせて撮影したいが、まどかが居ない。
- コスプレする人は変身願望がある。
女性として語れること
- まどマギもエヴァも主要キャラは中学生。中学生は人生のターニングポイント。
- まどかに自分の願い、アイデンティティを投影している。
- ほむらの願いに反してまどかがキュゥべえと契約したのはどうなんだろうって(笑) → 無自覚での無責任。
- まどかはよく居る子、一般的な女子中学生 → (女子は学校で)コミュニティやグループを作る。
- さやか → 恋より友達を選んだ。しかし、欲望を我慢しきれずに魔女化。女子中学生の汚い部分に気づく。
- ほむらはまどかのためと言いつつほむら自身のために勝手にやってること。新編では自分勝手な側面。
- まどマギは見た目(うめ先生によるキャラクターデザイン)を裏切る中身の汚さに惹かれた。
- リアリティーな心理描写 → 人は他人からの評価によって自分を形成している。(他人を気にして生きていると)自分は中身ないんだなって。
- 綺麗なことをそのまま美しく描くだけでなく日常にもある見たくない部分でもある。
- アニメで描かれるものは人間が見たくないものと言うことに気付かされる。
社会学者から見た『魔法少女まどか☆マギカ』 (須藤廣)
須藤先生はツーリズムの専門家(観光研究)で、門司港レトロなどに関わっておられるとのこと。
- 観光地形成ではメディアが重要な役割を果たしており、アニメでの描かれ方で町の印象が変わることも。
- 読者が読み替えてリアルに体験したい → 埼玉県の鷲宮(らき☆すた)。
- 漫画、アニメによって人間関係が形成される → 作品に転化される。
……という自己紹介を兼ねた導入を経てまどマギについての話に入っていきますが、須藤先生がまどマギを見た結果、ポストモダンだと思ったそうです。
- ポストモダンとは、モダンな価値(夢や希望を礼賛)を否定するもので、この流れは1980年代から、アニメで言えばAKIRA、攻殻機動隊、エヴァから始まった。
- まどマギは魔法や夢の胡散臭さへの警鐘、リアリティの奪還。
フクシマの災との関連
- 宗教は人間の欲望のリミットを設けていた → 近代社会はそれがない。
- 科学技術への希望が絶望へ転化した → まるで「ワルプルギスの夜」。
少女に向けられる期待からの開放を!
- まどかに対する期待が大きすぎる → ほむらがまどかに対する大きな期待を思っている。まどかに分かってもらえない。
- まどマギの視線は男性ではないのか。マザコン転じて少女に母親を求める。宮崎駿作品も同様。
また、発表スライドとは別に、当日は『社会学者から見た「魔法少女まどか☆マギカ」』という資料が配付され、そこでは
- E・デュルケムの「自殺論」から見る魔法少女のシステム、および叛逆ラストのほむらの行動の意味
- 秋葉原とそこに存在するメイドカフェのシステムと、魔法少女とインキュベーターの類似性
などが書かれており、こちらも興味深いものでした。
- これは参加者以外は見られないのですかね。ウェブで公開とか。
質疑応答的なもの
発表の後は一般参加者も交えての質疑応答(に限らず参加者同士の議論などなんでもあり)が1時間ほど行われました。なんとここでは須藤先生がキュゥべえの被り物をして登場!
こちらも取り留めもなくメモったものを箇条書きにするだけですし、かなり抜けも多いですが参考までに。
- 性的に萌えられたくない少女 vs 性的に萌えたいオタクの拮抗。
- まどかの家庭は母がキャリアウーマン、父は主夫だが、TV版最終話でまどかが概念化すると父母の役割が逆転する? (潤子の喋り方が女性化、スカートを履く) → 少女にとっての父性を父親が演じきれなかった。
- 昔の魔女っ子もの → 変身願望、化粧を模擬化した変身セット。ミンキーモモあたりから男性目線に。セーラームーンで逆転。
- 和子先生: 男から見た嫌なところを背負っている。完璧な女性(鹿目潤子)との対比。
- 昔のヒットアニメ: 現象を取り扱う → 今のアニメ: 内面を取り扱う。少女漫画は昔から内面を描いたものが多かった。魔法も魔女も何らかのメタファーでしかない。
- 「叛逆」って誰の誰に対する叛逆? (表さんからの問いかけ) → キュゥべえのまどかに対する叛逆、ほむらのまどかに対する叛逆。
- まどマギ世界の未来的な町並みについて → 監視社会を表している(ガラス張りの教室とか)。幸福な管理: すべての住民が管理されている(人格を持ったコンピューターによって)。
- 新編だけでなくTVシリーズでも見滝原の外はないんじゃないか。
- 未来的な町並みの中にところどころ存在する廃墟(OLが飛び降りたビルなど)の存在は「希望と絶望の差し引きはゼロ」を表しているのでは。
- 王道から外れた外道的なものが喜ばれる。
- 自殺率0とは自殺する自由がないこと。システムが変わらないのはシステムの崩壊。
- サイコパスを見てまどマギの今後を予想しようw
- 最終兵器彼女との対比: 世界のために戦い続けるちせと戦わないまどか。somebody と nobody の対比。