まずは基本的な事項として、モハ1000形の特徴をおさらいしてみましょう。
これらを念頭に置いたうえで、鉄道省申請書類のデータや当時の目撃情報と照らし合わせてゆきます。
モハ1000形の竣功届が鉄道省に提出されたのは1939年10月12日であり、東急側の入籍日もその日付の扱いとなっています。ところで目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併し、新生の東京横浜電鉄となったのが同じ1939年10月であり、より正確には10月1日に合併が行われ、商号変更が行われたのが10月16日となります。すなわちモハ1000形の竣功は両社の合併と商号変更の狭間の時期に行われ、実態はともかく書類上の話をすれば竣功時は全車が目黒蒲田電鉄の所属であったということになります。おっ、すでに怪しい雰囲気が漂ってきましたね……。
竣功より数か月さかのぼり、1939年5月には車体や台車、その他一部機器の設計変更申請がなされています。
項目 | 変更前 | 変更後 | 備考 |
---|---|---|---|
自重 | 36.5t | 37.5t | 目蒲の当初申請時は 37.0t |
車幅 | 2,743mm | 2,740mm | 室内幅は変更なし |
車高 | 4,204mm | 4,200mm | |
室内高さ | 2,450mm | 2,380mm | |
台車固定軸距 | 2,200mm | 2,250mm | |
歯車比 | 61:19 (3.21) | 62:20 (3.1) | |
主制御器 | 日立 PB-200(電空カム) | 日立 MC-200(電動カム) | |
パンタグラフ | 日立製作所 | 東洋電機 C-6[1] | 日立製も仕様は同一 |
変更前のうち自重 36.5t、台車固定軸距 2,200mm などの項目はモハ510形と同一仕様であり、歯車比 61:19 もモハ510形のうち川崎車輛製のものと一致していますから、元々はモハ510形と似た仕様で計画されていたものが、実際には別形式を与えるにふさわしい車両に変更されたことが分かります。
モハ1000形は設計段階では東京横浜電鉄が10両(1001–1010)、目黒蒲田電鉄が12両(1011–1022)を発注していましたが、この仕様変更は両社ともほぼ同じ日付で申請が行われており、東横側ではその直後に他鉄道所属車両運転認可申請
が出されています。これは目蒲車が竣功した暁には東横線内でも運転を行うというものです。
最初の設計申請から竣功届までの流れをまとめると下表のようになります。
内容 | 東京横浜電鉄 | 目黒蒲田電鉄 |
---|---|---|
設計申請 | 1937年10月22日・東横丑第1868号(10両) | 1937年10月22日・目電丑第1362号(12両) |
設計認可 | 1938年4月25日 | 1938年4月25日 |
設計変更申請 | 1939年5月1日・東横卯第1397号(10両) | 1939年5月11日・目電卯第435号(12両) |
他社所属車運転申請 | 1939年5月11日・東横卯第1544号(12両) | ― |
設計変更認可 | 1939年10月2日 | 1939年10月2日 |
他社所属車運転認可 | 1939年10月2日 | ― |
竣功届 | ― | 1939年10月12日・目電卯第1131号(22両) |
こうしてみると明らかに違和感がありますね。車体サイズや台車にまで変更が生じているのに対して設計変更の申請は竣功のわずか5か月前であり、この短期間に設計をやり直して完成に至るとは考えにくく、さらにその認可のわずか10日後には竣功届が出されているのもおかしなところです。
実際はもっと早期の段階で設計変更が行われたか、あるいはもともと設計変更後の仕様を予定していたところ、何らかの事情によりあえて在来車(モハ510形)の仕様で当初の申請を行った(つまり「設計変更」とは書類上の辻褄合わせに過ぎなかった)可能性すら考えられます。
ここまでは申請書類のデータを追ってみましたが、1939年10月竣功のデータに疑問が残るいくつかの資料や体験談があります。
dl.ndl.go.jp
) には1939年5月の新造と記載坂戸氏の目撃談を引用しましょう(モハ1000形に関する部分のみを抜粋)。
「東京横浜電鉄沿革史」に関しては公式の社史でありながらデータに誤りが多く、ひとつの記述だけをもって鵜呑みにすることはできません。なにせ車両データのみならず、会社合併に関する重要な日付すら誤っている始末ですから[5]。
S.Usui 氏や宮松氏の写真についても撮影日データが誤っている可能性は考慮しなければなりません。
一方で坂戸氏の目撃情報は日記形式で記録されたものであり、細かな日付の誤記はあれど[6]、竣功前であるはずの1939年5月にモハ1000形が動いていたことは間違いないでしょう。営業運転か試運転かは明言されていませんが、5月15日の日記では渋谷―日吉
ともあるので、これが行先方向板のことだとすれば営業運転だった可能性が高いと思います。7月4日にはモハ1011を目撃されていますが、車番の記録が間違っていなければ東横車のみならず目蒲車すらも竣功届提出前かつ他社線運転認可前に東横線へ入線していたことになります。
申請書類にパンタ形式が明記されているのは目蒲車のみ。 ↩ 戻る
鉄道ピクトリアル 1994年12月臨時増刊号(No.600)「〜昔日の東急〜 私の鉄道日記から」(坂戸直輝) p.142 ↩ 戻る
「私鉄電車のアルバム 1A」(慶応義塾大学鉄道研究会) p.48 ↩ 戻る
「東急電車形式集.1」 p.62 ↩ 戻る
第二編 目蒲・東横兩社竝立飛躍時代(p.280)(dl.ndl.go.jp
) では目黒蒲田電鉄→東京横浜電鉄への商号変更が10月20日と記載されています。一方で巻末年表の9ページ目(dl.ndl.go.jp
) では正しく10月16日となっています。 ↩ 戻る
5月19日(木)
とあるのは明らかに誤りで、「5月18日(木)」ないし「5月19日(金)」が正しいものと思われます。 ↩ 戻る
河津桜まつり(www.kawazuzakura.net
) が開催される期間を中心に1往復が運転される全車自由席の臨時快速列車は、2017年以降は「河津さくら号」として運転されていましたが、今年は「河津桜号」と微妙に列車名が変わっています。
www.izukyu.co.jp
) 昨年(2019年)(camel3.com
) は8000系の「河津さくら号」とは別に、JRの251系を使用した「河津桜号」が伊豆急下田15:35→伊東16:47、その折り返しとして「河津夜桜号」が伊東17:12→伊豆急下田18:12 のダイヤで運転され、それ以前にもJR直通の特急列車で「河津桜号」が運転された年もあったようですが、今年の臨時快速はそれらの列車名を引き継いだことになります。使用車種は発表されていませんが、伊豆高原発着でホーム長の短い今井浜海岸駅にも停車することから、(251系ではなく)例年どおり8000系が使われるものと思われます。
さて、この臨時快速に初めて8000系が充当されたのは2007年で、当時の運転区間は伊東→伊豆急下田と河津→伊豆高原の1往復、途中停車駅は伊豆高原、伊豆熱川、伊豆稲取、今井浜海岸、河津、蓮台寺で、このほかに運転停車もありました。列車名は「快速さくらリレー号」で、列車名自体に「快速」が含まれていたのが特徴でした[1]。
2008年、2009年は運転日とダイヤが若干変わったのみでしたが、2010年からは毎年のように注目すべき変化が起こっています。
より詳細な運転データを下表にまとめます。
2023年2月10日追記2023年の運転情報が発表(camel3.com
) されたので表に追記しました。
2024年2月7日追記2024年の運転情報が発表(camel3.com
) されたので表に追記しました。
年 | 河津桜まつり期間 | 運転日 | 列車名 | 旅客扱い区間 | 途中停車駅(運転停車を除く) |
---|---|---|---|---|---|
2007年 | 2月10日〜3月10日 | 2月10日〜28日 | さくらリレー号 | 伊東→伊豆急下田、河津→伊豆高原 | 伊豆高原、伊豆熱川、伊豆稲取、今井浜海岸、河津、蓮台寺 |
2008年 | 2月9日〜3月10日 | 2月9〜29日(〜3月10日?) | さくらリレー号 | 〃 | 〃 |
2009年 | 2月7日〜3月10日 | 2月7日〜3月10日 | さくらリレー号 | 〃 | 〃 |
2010年 | 2月6日〜3月10日 | 2月6〜28日(3月の実績不明) | さくらリレー号 | 〃 | 伊豆高原、伊豆熱川、伊豆稲取、今井浜海岸、河津 |
2011年 | 2月5日〜3月10日 | 2月11〜13日、19〜28日 | さくらリレー号 | 伊東→河津、河津→伊豆高原 | 伊豆高原、伊豆熱川、伊豆稲取、今井浜海岸 |
2012年 | 2月5日〜3月10日 | 2月11〜12日、18〜29日、3月10〜11日 | さくらリレー号 | 〃 | 〃 |
2013年 | 2月5日〜3月10日 | 運転なし(?) | |||
2014年 | 2月5日〜3月10日 | 2月15〜28日(3月の実績不明) | さくらリレー号 | 伊豆高原→河津、河津→伊豆高原 | 伊豆熱川、伊豆稲取 |
2015年 | 2月10日〜3月10日 | 運転なし(?) | |||
2016年 | 2月10日〜3月10日 | 不明 | さくらリレー号 | 伊豆高原→河津、河津(?)→伊豆高原 | 不明 |
2017年 | 2月10日〜3月10日 | 2月11日〜3月10日 | 河津さくら号 | 伊豆高原→伊豆急下田、河津→伊豆高原 | 伊豆熱川、伊豆稲取、今井浜海岸、河津 |
2018年 | 2月10日〜3月10日 | 2月10日〜3月10日 | 河津さくら号 | 〃 | 伊豆熱川、伊豆稲取、今井浜海岸、河津、蓮台寺 |
2019年 | 2月10日〜3月10日 | 2月16日〜3月3日 | 河津さくら号 | 伊豆高原→伊豆急下田、伊豆急下田→伊豆高原 | 〃 |
2020年 | 2月10日〜3月10日 | 2月15日〜3月6日 | 河津さくら号(河津桜号?) | 〃 | 〃 |
2021年 | 新型コロナのため中止 | 運転なし | |||
2022年 | 2月1日〜2月28日 | 運転なし(?) | |||
2023年 | 2月1日〜3月5日 | 2月11日〜2月28日 | 河津桜号 | 伊豆高原→伊豆急下田、河津→伊豆高原 | 伊豆熱川、伊豆稲取、今井浜海岸、河津、蓮台寺 |
2024年 | 2月1日〜2月29日 | 2月10日〜2月29日 | 河津桜号 | 伊豆高原→河津、河津→伊豆高原 | 伊豆熱川、伊豆稲取、今井浜海岸 |
www.izukyu.co.jp
) 、および「JR時刻表」「JTB時刻表」の各年2〜3月号を参照しました(2020年の運転日のみ「鉄道ダイヤ情報」より)。また、参考情報として記載した「河津桜まつり」の開催期間は河津町観光協会のサイト(www.kawazu-onsen.com
) に掲載されたデータを情報源としています。ただし、2010年のみは同サイトのアーカイブでは確認できなかったため、旅行会社のブログなど複数の2次情報を元にしました。2012年の運転のうち、3月10日〜11日は当時のニュースリリースによると下りのみの運転だったようです。この年は開花時期が遅れた影響で本来の「河津桜まつり」に続いて3月11日〜18日に「河津桜“春うらら”まつり」が行われることになったためイレギュラーな形になったのでしょう。上りは回送で運転されたものと思われますが、未確認です。
2013年と2015年は運転がなかったものと思われますが、疑問符を付けています。この臨時快速は伊豆急行のニュースリリースで運転が告知される年もありますが、リリースなしで運転されることもあります。また、まれに「JR時刻表」や「JTB時刻表」への掲載がされないこともあります(一例として2016年の運転はなぜか両時刻表への掲載がありませんでした)。そのため、「運転がなかった」ことを証明するのは困難なのです。
そして、2016年は上記のとおり全国時刻表への掲載がなく、目撃情報を頼りに情報をまとめたため、詳細な運転データが不明な状況です。
その他の年でも、2010年と2014年は2月28日までの運転としていますが、実際は3月以降も運転された可能性があります。例年、3月はJRグループのダイヤ改正が行われるため、「JR時刻表」、「JTB時刻表」の3月号では改正後のダイヤが掲載されることがあり、この場合、2月号に3月上旬(ダイヤ改正前)の運転の掲載がないと「3月上旬の運転がなかった」のか「2月号の時点では3月の運転計画が未定だったに過ぎない」のかの判断ができないためです。
また、一部200系や185系で運転されたケースもあるようですが、このあたりも詳細は把握していません。
いつかの段階で「快速さくらリレー号」が「さくらリレー号」に改称されています。「JR時刻表」と「JTB時刻表」の表記を見ると、2007年は両者とも「快速さくらリレー号」ですが、2008年〜2011年は「JR時刻表」では「快速さくらリレー号」、「JTB時刻表」では「さくらリレー号」と異なっており、2012年には両者とも「さくらリレー号」になっています。このため、改称時期は2008年〜2012年のいずれかと思われますが、はっきりしたことは分かっていません。本記事では2007年運転分も含めて「さくらリレー号」で表記しています。 ↩ 戻る
しかし HTML の要素の存在が逆に原稿に良い影響を及ぼすこともある事実にここ最近気付きを得ました。それが <dfn>
要素 です。<dfn>
要素は用語の定義を表すもので、HTML の黎明期から存在していましたが、HTML5 になってより詳細な使い方が規定されました。とくに重要なのは以下の一文です。
すなわち、ただ単に用語を提示するだけでなく、その定義を同じ段落中やセクション内などに記す必要があるということになります。
たとえば日本語版 Wikipedia における HyperText Markup Language の冒頭の文章は次のようになっています。
実際の Wikipedia ページでは「HTML」と「HyperText Markup Language」は <b>
要素による太字表現となっていますが、それらは用語なので <dfn>
要素にするのがより適切でしょう。そして同一段落中にその概略が書かれているため、先に記した <dfn>
要素の仕様と照らし合わせても問題ない構成となっています。
一方で、世の中の書籍や記事には説明なしに用語がかぎ括弧や太字表現で書かれるケースが多数存在します。同じく Wikipedia の HTML ページを読み進めていくと次のような文章があります。
ここでは「HTML構文」と「XML構文」がやはり <b>
要素による太字表現となっており、これらも用語なので <dfn>
要素にしたくなりますが、それらの構文が具体的にどのようなものか説明されていない(2種類の構文があるという事実のみが説明されているに過ぎない)ため、<dfn>
要素でのマークアップは適切ではありません。
では <b>
要素のままにしておくのが適切なのか? 原稿がそうならそうせざるを得ないでしょうが、でも用語なのでやはり <dfn>
要素にしたいところです。すなわちこの場合は原稿を加筆するのがあるべき姿だと思います。
HTML 構文と XML 構文の違いはなんなのか、なぜ2つの構文が存在するのかといった情報は Wikipedia で「HTML」を検索するような人にとっても興味を持たれうることでしょう。しかし実際のところ Web 上の文章でも紙の本でも、このように説明なしに用語が書かれるケースが溢れていますから、文章の書き方としてこのことはあまり意識されていないものと思われます。
本来であればこれは HTML 仕様云々ではなく国語の問題と言えるのかもしれません。しかし正しい日本語表現について専門的に学ぶ姿勢を持たず、一方で HTML はそこそこ囓っている私にとっては、HTML で <dfn>
要素を使うなら用語の定義も文章で表現しなくてはならないと規定されていることによって、原稿に対してそのような意識が向き、結果として原稿をより良い方向へ改善させるきっかけになっているのは事実です。
HTML には 100 を超える多数の要素が存在しますが、このように要素の定義から逆に原稿側に意識が向くのは <dfn>
要素くらいではないかと思います。少なくとも私はこのことに気付いて以降、より積極的に <dfn>
要素を使うようになり、また HTML を使わない紙の原稿においてもそれ相当の書き方を意識するようになり、そのことで結果的に原稿の質が上がっていると感じています。
また用語の定義を文書化するということはその用語を漠然とではなく、他人へ説明できるレベルで理解することが必要となります。これは自身に対しての枷でもあります。その用語に言及するならせめて <dfn>
要素でマークアップできるレベルには理解しないといけないという縛りを入れることで、自分自身の理解向上にも繋がります。
そんなパワーを持った <dfn>
要素ですが、Markdown にその構文が存在しないので、ブログ等ではなかなかに使いづらいのが悲しいところです。
当時の連載作家によるトークショーやサイン会、アニメ上映会などが行われたそうですが、参加者によるレポートや写真を見かけることは少なく、その全容を知ることは難しい状況です。
そこで、サンデー本誌のバックナンバーから告知記事や公式レポートが掲載された号を調べてみました。
1992年7月〜8月にかけて全5会場で開催されたようです。
当時の少年サンデーに掲載された告知記事より企画内容を抜粋します。
また、週刊少年サンデー1992年38号(8月26日発売)では東京会場の公式レポート記事が写真付きで2ページにわたり掲載されています(pp.114-115)。
日付 | 場所 | 定員 | 出演作家 |
---|---|---|---|
7月26日(日) | 東京 | 1000名 | 青山剛昌、あだち充、河合克敏、藤田和日郎、満田拓也、ゆうきまさみ |
7月30日(木) | 札幌 | 350名 | 北崎拓、久米田康治、西森博之、藤田和日郎 |
8月8日(土) | 福岡 | 600名 | 椎名高志、藤田和日郎 |
8月9日(日) | 大阪 | 500名 | 青山剛昌、椎名高志、藤田和日郎、渡部精二 |
8月22日(土) | 名古屋 | 500名 | 北崎拓、久米田康治、藤田和日郎 |
前述のとおり、週刊少年サンデー1992年38号(8月26日発売)では東京会場の公式レポート記事が掲載されています。これによると告知記事に掲載されていなかった企画として、原画展示もあったようです(写真が小さいため作品は不明)。
また、久米田康治先生の『行け!!南国アイスホッケー部』5巻 に「サンデー元気まつり in さっぽろ レポート」と題して2ページの漫画レポートが掲載されています。
サンデー本誌の目次ページでは何件かイベントに言及したコメントがありました。
翌1993年にも同じような規模で開催されたようです。
当時の少年サンデーに掲載された告知記事より企画内容を抜粋します。
また、週刊少年サンデー1993年41号(9月4日発売)では東京会場の公式レポート記事が写真付きで3ページにわたり掲載されています(pp.114-116)。
日付 | 場所 | 定員 | 出演作家 |
---|---|---|---|
7月24日(土) | 大阪 | 600名 | 椎名高志、藤原芳秀、七月鏡一、木村謙午 |
7月26日(月) | 札幌 | 200名 | 青山剛昌、藤田和日郎、菊田洋之 |
8月7日(土) | 福岡 | 650名 | 斉藤むねお、北崎拓、久米田康治 |
8月9日(月) | 名古屋 | 500名 | 西森博之、満田拓也、広井王子、中平正彦 |
8月22日(日) | 東京 | 1400名 | あだち充、ゆうきまさみ、藤田和日郎、青山剛昌、村枝賢一、石渡治、河合克敏、山田貴敏 |
全会場とも12:00開場、13:00開演。
前述のとおり、週刊少年サンデー1993年41号(9月4日発売)では東京会場の公式レポート記事が掲載されています。これによると告知記事に掲載されていなかった企画として、『YAIBA』の敵キャラコンテスト展示&授賞式もあったようです(東京会場のみ?)。
また、久米田康治先生の『行け!!南国アイスホッケー部』10巻 のカバー折り返しにイベントで上映されたビデオ映像の一部が掲載されています(電子版では未収録)。『サンデーまんが家大集合』のものでしょうか。
サンデー本誌の目次ページでは何件かイベントに言及したコメントがありました。
1994年は規模が縮小され、東京と大阪の2会場での開催だったようです。告知記事は週刊少年サンデー 1994年32号(pp.114-115)に掲載されています。
日付 | 場所 | 時間 | 定員 |
---|---|---|---|
8月15日(月) | 東京・ヤクルトホール | 13:00会場、14:00開演(約2時間30分) | 280組560名 |
8月17日(水) | 大阪・フェスティバルリサイタルホール | 13:00会場、14:00開演(約2時間30分) | 280組560名 |
内容としては、以下のアニメ3作品の全編上映が行われた模様です。
出演漫画家の記載はなく、時間的に考えても登壇なしか、あってもせいぜい短いビデオメッセージくらいだったのではないかと思われます。
その後、1995年〜1998年は情報が見当たりませんでしたが、1999年には全8会場という最大規模での実施がありました。
告知記事は週刊少年サンデー 1999年28, 29, 32, 33号および7月増刊号に、レポート記事は名古屋会場分が週刊少年サンデー 1999年39号に、ビデオメッセージの内容が週刊少年サンデー 1999年40, 41号に掲載されています。
また、1999年といえば個人ウェブサイトが登場し出した時期とあって、参加者によるレポート記事も僅かながら見られます。
日付 | 場所 | 定員 | 出演作家 |
---|---|---|---|
7月27日(火) | 名古屋 | 1,200人 | 椎名高志、三好雄己、石渡治 |
8月2日(月) | 大阪 | 1,500人 | |
8月4日(水) | 新潟 | 550人 | 満田拓也 |
8月8日(日) | 仙台 | 1,000人 | 曽田正人 |
8月10日(火) | 札幌 | 1,100人 | 皆川亮二、曽田正人 |
8月13日(金) | 広島 | 550人 | |
8月16日(月) | 福岡 | 900人 | 村枝賢一 |
8月21日(土) | 東京 | 1,000人 | 青山剛昌、高橋留美子、皆川亮二 |
8月22日(日) | 東京 | 1,000人 | 青山剛昌、高橋留美子、皆川亮二 |
kooyakooya.blog12.fc2.com
) には曽田正人、松浦聡彦、若桑一人、山本智の4名の名前が書かれています。web.archive.org
) では、作家の登壇は高橋留美子、村枝賢一、椎名高志、安西信行の4名だったとの証言があります。連載まんが家総出演のメッセージビデオの上映がありました。週刊少年サンデー1999年40号、41号の「投稿コミックショー」コーナーでその内容が紹介されています。作家名のみ下記に記します。
実際の映像がビデオテープに収録されているようですが、紙面に掲載された写真によるとケースには㊙︎マークが書かれていて、また応募者全員サービスや通販等の案内もないので、小学館社内に保存されている非売品かと思われます。ぜひ見てみたいものですが……。
下記の4作品が上映されたようです。
また、イベント後の9月〜11月にかけて「書店さんデー! 大感謝祭」と称して全国11書店でも上映が行われたようで、週刊少年サンデー 1999年43号の p.306 に告知が掲載されています。
週刊少年サンデー 1999年43号の pp.304-305 ではイベントグッズの通信販売の告知があり、テレホンカードやポスターの商品リストが画像付きで掲載されています。
tottochan-movie.jp
) を観ました。 ベストセラーにもなった黒柳徹子さんの自伝を原作としたアニメ映画ですが、実はその時点では原作は未読。鉄道マニア的な観点から大井町線のモハ510形 やトモエ学園の電車教室(鉄道省払い下げ車の廃車体利用) の描写が気になるという理由で観に行ったのですが、思わぬ形で Web アクセシビリティへの想いにも関連するシーンがありました。
トットちゃんが転校したトモエ学園にはちょっと変わった生徒が在籍しています。小児麻痺を患っている泰明ちゃん(山本泰明)は一応自分の足で歩けるものの、木に登ったり激しい運動をしたりすることができません。主人公であるトットちゃん自身もその自由奔放すぎる振る舞いから前の学校を追い出されたくらいですから、やはり変わった子だったといえます。
そんな生徒達に対して校長である小林先生(小林宗作)は過度な配慮、介入をしない大人として描かれています。
ある日、学園内の汲み取り式トイレに財布を落としてしまったトットちゃんは、ひしゃくを持ち出して自力で汚物を汲み上げて財布を探そうとします。そこへ通りかかった校長先生はトットちゃんに何をしているのかと問い、状況を把握すると「そうかい」とだけ言ってその場を立ち去ります。しばらくした後、トットちゃんがまだ奮闘を続けている様子を見て「終わったら戻しとけよ」と言って再び去ってしまいます。
こんな対応ができる大人は多くないでしょう。目の前の子供(トットちゃん)は大人に頼らず、自らの過ちを自力で解決しようとしているのです。映画では「戻しとけよ」と言われて我に返ったのか、汲み上げた汚物の山を見てトットちゃんは唖然としていましたが、原作では
との思いが書かれています。
校長先生はその性格からして、もしトットちゃんが最初に相談をしてきたら一緒に財布捜しに奔走してくれたでしょう。しかしトットちゃんは自分で対応することを選択したため、たとえ服が汚物まみれになったとしても、最後まで自分で責任を取らせる選択をしたのだと思います。
映画でこのシーンを観たとき、小林校長の教育者としての姿勢に感銘を受けるとともに、自身の日々の HTML マークアップ、そしてアクセシビリティに対する姿勢にも繋がるものを感じました。
アクセシビリティではつい「できない人に対する配慮」をやってしまいがちです。しかしそれは正しい方針でしょうか。
ボタンを <span onClick="...">
でなく <button>
要素でマークアップする理由は、マウスを使うことができないユーザーへの配慮ではありません。<img>
要素の alt
属性が一部の例外を除き必須なのは、画像を見ることができない人にテキスト情報を提供する配慮からではありません。
トットちゃんは結局トイレに落とした財布を見つけることができなかったようです。もしかしたら、校長先生や周りの大人が協力してくれれば見つかったかもしれません。でも「非力な子供に対する配慮」をあえてしなかった。それは相手が小さな子供であろうと、自力で探すというその人の選択した行為を尊重したからです。たとえ財布の紛失という結果になろうとも、それは大事なことだと考えます。
Web アクセシビリティも同じです。ブラウザには様々な機能がありますが、それらをすべて使いこなせる人は多くないでしょう。ブラウザが持つズーム機能を知らない人にとっては Web ページの文字サイズ変更ボタンはありがたい配慮かもしれません。スクリーンリーダーのショートカットを使いこなせない人にとってはページ冒頭のスキップリンクは有用かもしれません。逆にそれがないことにより困る思いをする人も現実問題として存在するのは間違いありません。
ただそれらの機能の必要性の可否が論じられる際、ブラウザや支援技術のサポート状況など技術的な点が語られることは多い一方で、人権的な問題、ここでいう人権とは奴隷問題のような差別的なことよりも、相手を一人前の人間として尊重できるかという視点からの議論をほとんど見たことがありません。
小林校長は決して放任主義を貫いていたわけではありません。小児麻痺を患う泰明ちゃんの身体に多大な影響が出ると判断したときには子供たちを制止することもありました。仮想空間である Web では人間の身体に直接影響が出ることはありませんが、人気公演の先着チケット販売ページのように秒単位の差がものをいう場面では画面を目で見てマウスを使う人も、スクリーンリーダー利用でキーボード操作をする人も、同じレベルの俊敏さを確保できることが求められます。
一昔前に比べて Web サイトのアクセシビリティは格段に向上し、また Web アクセシビリティに興味を持つ人も信じられないほど増えています。とても素晴らしいことです。今後はこのような人権的な観点も含めて、より一層の努力が必要ではないかと思った次第です。
]]>mikuani.jp
) に行ってきました。 エレベーターで6階まで上がり、そこからは階段で展示会場の9階へ向かう形になるのですが、階段の壁には本展示会の描き下ろしポスターやアニメのカットイラストが多数貼られており、会場へたどり着くまでに否応なしに気分が高揚する仕掛けとなっています。
恋が始まるには……からAパート冒頭
死んだらどーするまで、ただし OP 部分を除く)
2024年1月8日追記1月6日に再訪したところ、解説表記は修正されていました。
Mixa Animation Diary Plus 『さよなら絶望先生』への期待と不安との記事にも書いたように、『さよなら絶望先生』の単独展示会自体が初めてのことであり、アニメの原画や絵コンテなどの制作資料が展示されることそのものが価値があるといえます。2015年〜2016年に行われたシャフト展示会 MADOGATARI展(www.madogatari.jp
) での展示資料との被りが少なかったのもありがたいところです(意図した配慮かは分かりませんが)。
展示資料の中で個人的に注目したのは1期オープニング(4話〜9話バージョン)の原画です。前奏部分で女子生徒の官能的なカットが次々切り替わりますが、その中から2カットの原画が展示されており、これまで知らなかった事実が明らかになりました。
一つ目は横向きの女子生徒ふたりが足を絡ませているカット。
左側の少女は三つ編みお下げの髪型的に小節あびるではないかと思われていましたが、原画には T RGB(70, 70, 70) ⏎ P 04-001 abiru
の書き込みがあり、キャラクター番号からしてもあびるで間違いないと言えます。そして右側のストレート長髪の少女はなんと T RGB(75, 75, 75) ⏎ P 03-001 chiri
で木津千里のようです。千里とあびるとは珍しい絡みですね。
⏎は実際の文字ではなく改行されていることを表す。
もう一つは女子生徒ふたりが抱き合っているカット(手前の少女は背中を向けている)。
こちらは Aの子
, Bの子
という表記と、肌の部分に 02-001 kafuka
, 06-001 nami
の色指定書き込みがあります。個人的な解釈としてこのふたりの肌の色はそれぞれ風浦可符香と日塔奈美の設定を流用するというスタッフ向けの指示であるものの、キャラクターとしてはあくまでモブであると受け取ったのですが、どうでしょうか。髪型も可符香と奈美とは少し異なる気がしますし。
あと観覧のおすすめとして、答え合わせ的な意味で『さよなら絶望先生全書』かアニメージュ 2008年2月号を持参すると良いかもしれません。
先のレポート記事に書いたとおり、せっかくの生オーディオコメンタリーでありながら夜公演では登壇者がほとんど発言せず(できず)、観客として不満を感じていたのですが、昼公演はめっちゃ盛り上がっていましたね(笑)。まあ1話Aパートとなれば記憶も鮮明でしょうし、話すネタもたくさんありますよね。
収録スタジオについては絶望放送の第17話「重力の二次」(2007年12月18日配信)のオープニングトークにて、神谷さんから3話くらいまでは向こう(代官山)で録っていた
という発言がありました。
当時の様子を写真で見られる媒体は声優グランプリ 2007年9月号 p.100 のアフレコレポートくらいかなあ。リニューアル前の WebNewtype にもアフレコレポート記事(web.archive.org
) がありましたが、元ページが消えて久しく、画像がアーカイブされていないのは惜しいところです。
アニメに関する裏側の話として、キャラクター設定はアニメ雑誌への掲載や原画展での展示が行われることが多く、原画や絵コンテもすべてではないものの比較的イベント展示や資料集への収録がされやすい印象です。またアフレコ時のエピソードも音響監督やキャストのインタビューでおおよそのことは把握できます。
一方でオーディションの話は断片的に語られるのみで、「誰がどの役を受けたか」が一覧のデータとして開示されることはまずあり得ず、またあくまで役が決まる前段階の話に過ぎないため、キャストご本人の記憶も時が経つにつれて曖昧になり、もはや正しい情報を知っている人は誰もいないということが珍しいケースではありません。
『さよなら絶望先生』シリーズにおいては、神谷浩史は新房監督による指名(オーディションなし)[1]、矢島晶子は唯一久米田先生からのリクエストがあった[2](ただしオーディションは受けた模様[3])ことは有名ですが、それ以外のキャストがオーディションで誰を受けたかはほとんど判明していません。そんな中、本イベントの昼公演では新たな情報が提示され、新谷良子がオーディションを受けたときのキャラクターがほぼ確定しました。
まず、これまでに判明していた情報を振り返ってみます。絶望放送が始まったときのアニメイト TV におけるインタビュー(web.archive.org
) では新谷さんがこんな発言をしています。
新谷さん自身がオタクであるため(腐女子ではないらしい)、当初は晴美を希望していた事実はかなり印象に残っているので、このインタビューに限らず他の媒体や絶望放送などで何度か話されていたかもしれません。
次に絶望放送の第39回「番外編 Let's リリキュラジオ!」(2008年5月27日配信)ではこんなやりとりがありました。
そして、今回の昼公演でもオーディションに関するトークが行われました。
すでに記憶が曖昧ということで、これらの発言を鵜呑みにして事実を確定できるわけではありませんが、発言に誤りはないと仮定すると以下のようになります。
今となってはもはや新谷さんが奈美以外のキャラを演じる if の世界線はいろいろな意味で想像が付かないですが[4]、仮に千里ちゃんに決定していたとしたらアイドルなのか、声優なのか、はっきりしなさいよ!
は逆に回避できたのでしょうか。
一期のオープニングといえば尾石達也。展示会の記事にもちょろっと書きましたが、尾石さんのインタビューとして月刊アニメスタイル 2011年9月号(第3号) の「尾石達也 自作を語る」3回は外せません。
昼公演のトーク内でもあった「新房監督は文字バージョンの方が好き」にも触れていますし、望の首吊りカットを描いた葛藤、女子生徒の判子顔の元ネタ、幻の二期オープニング構想などが語られており、『絶望先生』ファンなら必読でしょう。
絶望放送パートに関しては夜公演レポートの方で書きたいことは書いたのと、個々の投稿内容への言及はしない方針なので省略させて頂きます。
私は先に夜公演の現地観覧で久米田先生のご登壇を見て(見下ろして)いましたが、昼公演は事前の座席数からの推測もできず、本当にサプライズだったでしょうね。
あ、これ昼公演で話されていたのですね。夜公演レポートにて、『絶望先生』連載時代にメディア露出を避けていたことについて、私の勝手な妄想
という体で言及をしていましたが、実を言うとまったくの妄想ではなくある程度の確証があっての考察でした。というのも2022年2月に東海中学校・東海高等学校で行われた公開講座(togetter.com
) において、すでにご本人の口からこの件についての発言 があり、しかし配信等のされない閉じたイベントだったこともあり、私からも表だっての言及は控えていた次第です。別に非公開情報というわけではないですが、中途半端な要約をすることで変な形で誤解が広まってしまうのだけは避けたかったので。
まあそういうことなのでしょう。久米田先生が発言されたとおりのことです。
アフレコ時のエピソードは読売新聞 2011年9月14日 夕刊8–9面の「popstyle vol.265」における赤松健×畑健二郎の対談において(赤松)久米田は毎回アフレコに行っていたらしい。差し入れ持って
(畑)終わった後に女性声優さんと飲みに行った
(赤松)久米田から「原稿が終わらない」というメールが来たとか声優さんに聞いて
などと暴露されていますね。赤松先生も畑先生もあくまで伝聞での情報として発言しており、どこまで信憑性が高い話かは分かりませんが、この女性声優絡みの話が本当なら「レーシックでモテモテ」などと元弟子を茶化している場合じゃないですよね!!
今の久米田先生の口から前田さんのお名前が出ると、聞いているこちらも気が引き締まりますね。
あれだけ久米田先生を慕っていた MAEDAX もクメプロを卒業して以降は久米田先生に言及することがほとんどなくなってしまいましたが、例えば2023年6月14日のスペース の冒頭では視聴者の質問に答える形で、上京してクメプロに入った時の話を少しだけされています。MAEDAX は畑先生とは違い漫画家そのものではないため、久米田先生も作中でネタにすることはもうないし、MAEDAX も元職場での出来事を自ら積極的にアピールすることはしない(聞かれれば答える)、という関係性なのかもしれませんね。
とはいえ、いつか同窓会的な形で、久米田先生と畑先生と MAEDAX の3人で『かってに改蔵』のトークショーとかやって欲しいなあ……。
アニメージュ 2009年7月号(Vol.373)「絶対新房昭之宣言!」p.32 ↩ 戻る
『さよなら絶望全書』の久米田先生インタビュー p.288 ↩ 戻る
DJCD さよなら絶望放送 第9巻 「倫ちゃんの電話相談室」コーナーでオーディションも受けたんですけど、智恵先生っていうか可符香ちゃんとかで受けたような記憶があるんですけど、違ったかな
と発言されている。 ↩ 戻る
さすがの久米田先生も千里ちゃんや知恵先生を中の人に合わせてウザキャラにするのは不可能でしょう!! ↩ 戻る
mikuani.jp
) について、展示会に続き、6日に開催されたトークライブに参加してきました。公演は昼の部と夜の部がありましたが、夜の部を現地で観覧するため、昼の部はネタバレ防止の意味から配信もあえて見ずに参加。この記事を書いているタイミングでも昼の部はまだ見ていないので、すでに通しで見た方にとっては内容に不自然な箇所があるかもしれませんがご了承ください。 会場は Mixalive TOKYO 6階にある Theater Mixa。建物正面の大型電照広告「Mixa ビジョン」では1時間に4回程度の頻度で『さよなら絶望先生』の広告も流されていました。去年(2023年)の同じ時期に開催された『じょしらく』イベント時は12月上旬から広告が行われた ので、今年も12月中旬に現地に見に行ったのですがそのときは広告が流れず、どの時点から行われていたのかは不明ですが、少なくとも1月3日の展示会初日の時点では流れていたのを確認しています。
エレベーターで6階に上がるとすぐ正面に Theater Mixa の入口があり、チケットもぎり場の先ではプレゼント受付箱の他にひっそりと SHAFT TEN のグッズ(shaften.shop
) 展示が行われていました。商品は2点のみで少し寂しい感じですが、いま新品で販売されている『絶望先生』グッズはこれだけですからね。
私の座席は2階席の最前列(M列)。他イベントの体験談をいくつか拝見したところ[1]、「ステージ手前側が見切れる」「目の前のガラス板が邪魔」といった悪評があったため覚悟していたのですが、本イベントではステージ手前ギリギリに演者が来ることはなく、またガラス板も自分の目線ではさほど気にならず快適に観覧することができました。会場自体が小規模のため2階席といえど近い距離であり、むしろかなり見上げる形になる1階前方席よりも良かったかもしれないくらいです。
ステージのテーブルに4人分の座席が用意されていたので、サプライズゲストが来るであろうことは大方予想がついていたことでしょう。しかも、これは2階席の人しか見えなかったかもしれませんが、開始前にあらかじめ置かれた台本(?)は3人分しか用意されなかったので、ゲストは声優ではなく台本不要な扱いの人であろうということで、消去法で考えれば久米田先生が登壇されるということは可能性として予想はできましたよ。ただ久米田先生だとしたら、2020年12月に川越で行われた『かくしごと』イベント(kakushigoto-anime.com
) の時のようにきっと最後にちょろっと出て一言感想をいただくだけだろうと思っていたんです。
侮っていました。そう、今の久米田先生はもはや明石家さんまと肩を並べる程の芸能人(やや誇張表現)。そりゃあオープニングトークを台本なしでこなす程度は造作もない事だったのです。
しかし壇上に久米田先生のお姿が見えた時、「嬉しい」という気持ちと共に「しまった」という思いがよぎりました。前述のとおり私の座席は2階席、あろうことか創造主を見下ろす位置にいたのです。こんな不敬が許されるのでしょうか。いや許されるわけはない。できることなら今すぐ1階席、あるいはライブビューイングが行われている地下ホールに降りてゆきたくなりましたが、3人のリスナーと多数のサクラで会場は満席。座席変更などできるはずもありません。いたたまれない気持ちを抱えながら、しかし新年早々久米田先生のお姿を生で、そう生で拝見できるとはなんと幸福なことでしょう。EGAKU展(egakuten.com
) でのサイン会からそう日も経っていないのに。
そしてなにより『絶望先生』のイベントに久米田先生。ありえないですよ。今でこそ自撮り棒も購入されて 、YouTuber としての地位を欲しいがままにされている久米田先生ですが(やや誇張表現)、『絶望先生』の連載時代はほとんど表に出られなかったですから。台湾で開催されたサイン会と中野でのチャリティーイベントのみが例外的な存在だったはずです。当時、久米田先生といえば世界でいちばんお姿を拝見したい方でありながら、『南国』単行本や『改蔵』ファンブック の写真を眺めるしかなかった天上の存在。お声だけは島本和彦先生のラジオで聴いていましたが[2]、『絶望先生』関連では某シャフトスタッフの策略(?)によりオープニングで遺影が晒された以外はその素顔を衆目に晒すことはなく、インタビューで写真が掲載された時も(本来顔出しNGではないはずのところ)加工がなされる徹底ぶり[3]。全人類が期待していた『絶望放送』のゲストに来られることもなく、最終回近くになってわずかにカセットテープでの音声出演のみであったことも懐かしい思い出です。
これは私の勝手な妄想ではありますが、きっと意図しての演出の一環だったのではないかと思うのです。『絶望先生』の作風において原作者が表に出て作品のことをベラベラ喋るのはちょっと違うと、少なくとも私はそう思います。一方で最近の『かくしごと』や『シブヤニアファミリー』においてはそういったこともなく、作品関連で、あるいはあくまで久米田康治という一人の作家としてさまざまなメディアに顔出しされても問題はないわけです。この対応の違いを久米田先生ご本人は心境の変化とか年齢的な問題などとおっしゃっているものの、「作品の雰囲気」を大切にされていたからこその違いではないかと。
ともかくも、ステージ上のディスプレイに『さよなら絶望先生』のタイトルと糸色望の姿が大写しにされた中に久米田先生がおられる様子を見て、感慨に耽るファンも多かったのではないでしょうか。これは『かくしごと』のイベントに登壇されたのとはわけが違うのです。そして『絶望先生』がアニメ放送もラジオも漫画連載も、プロジェクトとしてすべて終了して長い刻が経った今だからこそ実現したことであるといえるでしょう。
冒頭早々にこのような “重み” を感じながら、イベントは始まります。
オープニングトークというか、事実上「神谷浩史による久米田先生へのインタビュー」でしたが、もう最高でしたね。オープニングからこんなに気分が高揚するイベント、他にありますか。
奇遇ですね、私もです。『かってに改蔵』連載時代、さんざんアニメ化されないことをネタにしており、一時期は本当にアニメが実現できそうな雰囲気を出しつつも「なかったことに」されたトラウマを我々読者(主語が大きい)は当時持ち続けていたわけで、作中で原作者がアニメ化を匂わせようと[4]、単行本のオビで正式に告知されようと[5]、まるで実感が沸かず、なんなら放送当日に映像が始まってすらこれが『絶望先生』のアニメであるとは信じられず、1話アバンで風浦可符香が台詞を発した瞬間に「ああ、本当にアニメ化が実現したのだな」と実感が後から追いかけてくる経験をしました。当時リアルタイムでアニメを観ていた他のみなさんはどうでしたか? 信じられていましたか?
いやいや、2020年の『かくしごと』アニメ化以来、ちょくちょく出ているじゃないですか。TV 番組だけでも2020年〜2023年の4年間で3回、インターネット配信も含めれば10回程度、インタビューでの写真掲載なども含めればさらに多くの回数のメディア露出をされています[6]。
そりゃあ久米田先生はアイドルでいらっしゃいますから 。そう思っているのは椎名高志先生だけではないはず。
連載終了直後にインタビューが行われた季刊エス 40号 の「さよなら絶望先生連載完結記念インタビュー」でも同じ発言をされていますね。大丈夫ですよ、昔の発言と同じですよ。この直後に話されていた、「ラストの展開は最初から考えていたのか」についての回答を含めて同じですよ。
そしてオープニングトークコーナーの終了とともに久米田先生ご退席。ラジオ楽しんでいってください
といいながら手を振って頂けたのでこちらも全力で手を振り返す。EGAKU展(egakuten.com
) でのサイン会の時も退席時に手を振って頂けたのですが、この時は最後にサインをして頂いていた方以外には、少し離れた場所でずっと眺めていた私と、たまたまそのタイミングで展示を見ていた数人しか観客がおらず、しかもとっさのことだったのでリアクションができなかった苦い思い出があるので(これも不敬行為といえるでしょうね)、その贖罪の意味も込めて全力で振り返しましたよ。
ステージから捌ける際、観客が最後の瞬間まで久米田先生のお姿を見られるようにでしょうか、上手側にいた構成 T が立ち上がり壁際に寄ったのもさりげない配慮で素敵でしたね。
アニメを流しながら登壇者がトークするという、生オーディオコメンタリーのような感じ。夜公演では第一期の最終話(12話)「なんたる迷惑であることか!」のAパートを流したのですが、なんともコメントに困る内容で登壇者お三方ともほとんど発言できず、ちょっとした小ネタ解説があった程度で有用な話はほとんど聞けませんでした。だいたい野中藍と新谷良子がいるのですから、可符香が歌う回とか奈美メインの回とかやればいいのに、なぜ加賀愛の登場回を選んだのかと。『絶望先生』のアニメ DVD にはオーディオコメンタリーの類はなく、いつかイベントで生アフレコや生コメンタリーをやっていただけたらと期待していただけに、せっかくの機会を生かし切れていなかった結果となり、これは正直イベント内で唯一不満が残ったコーナーとなりました。
一方で、一期の11話と12話で不自然な入れ替えがあったこと自体は当時から話題に挙がっていたものの、その理由はこれまであまり気に留めておらず、12話で演出(絵コンテ)を担当した尾石達也が原因であったことは、言われてみればそうですよねという気付きがありました。
あと、作中のネタや演出に対して会場でところどころ笑い声が起きたのは、他の人がどういうところに面白みを感じたのかが知れて良かったです。2021年に『劇場編集版かくしごと』のスタッフ舞台挨拶イベント(kakushigoto-anime.com
) で『【懺・】さよなら絶望先生 番外地』を流されたことがありましたが、これは映画館での上映ということもありあまり笑いが起こらなかったので、こういったイベント内でアニメ上映が行われ、他の観客の反応が聞けるのは貴重な機会ですし、(ライブビューイングや配信ではなく)本会場で参加できたなによりのメリットを感じられました。
本会場のメリットといえば作中の「加害妄想進段コーナー」で美容院でかゆいところが言えない
などの振りに対して構成 T が強く頷くリアクションをされていたのも印象的でした。配信では写っていないのがもったいなかったところです。
こちらはトーク自体は盛り上がったのですが、そのほとんどは2009年1月に恵比寿 Liquidroom で開催された「大槻ケンヂと絶望少女たち」のライブ(voice.die1964.com
) に関する話であり、やはり「絶世美人」の楽曲そのものやエンディング映像にはほとんど触れられなかったのは残念でした。
アニメのオーディオコメンタリーというものは本作品に限らず話が脱線しがちではあるものの、こういうときに深く真面目なトークをしてくださる神谷浩史の存在に期待していたのですが、まあ絶望少女達がメインの楽曲ではトークもしづらいのでしょうね。「暗闇心中相思相愛」のふりかえりだったらあるいは良かったのかも。
コーナーが始まるとともにさのすけが登場。さのすけは絶望放送終了後に新谷さんに引き取られ、その後もときどきブログ「はぴすま☆だいありー♪」や Instargram に登場していました。
ameblo.jp
) ameblo.jp
) ameblo.jp
) ameblo.jp
) 比較的最近までその存在が確認されていたものの、その後引っ越しでダンボールに仕舞われていたとは……。今回の出演に合わせてきちんとお手入れされたようでなによりです。ところでさのすけは2008年の誕生日プレゼントだったのでいま15歳(高校1年生)なんですよね。
オープニングトークでは『シブヤニアファミリー』や過去作をネタにしたストーリーが展開されましたが、演者が作品名を言うたびに上手席の構成 T がその単行本や Blu-ray を観客に向けて見せていたのが印象的でした。配信では演者のアップしか写っていなかったので、これは本会場の観客だけが見ることのできた仕草だったようですね。壇上に置かれた各種グッズ と合わせて構成 T の私物なのでしょうけれど、メインスタッフが作品ファンであるからこそできるすばらしい演出でした。
絶望放送コーナーの投稿は Google フォーム上に開設されたメールフォーム(docs.google.com
) から行う形で、投稿期間は2023年12月8日〜22日。ミニ番組の宛先としては以下の4つが設定されていました。
ただ、メールフォームの告知が構成 T の X アカウントでのみ行われた のはどういうことなのでしょうか。観覧者が構成作家の個人アカウントをフォローしているとは限りませんし、ポスト Twitter サービスも多く登場した昨今、X を離れた人も多くいます。なにより中華人民共和国など X へのアクセスが禁止されている地域もある中で、公式サイトに情報を掲載せず、特定 SNS の個人アカウントでのみ情報を発信するという手段には賛同できません。なぜせっかくある公式サイトを活用しないのでしょうか。それに構成 T は Instagram や Threads(www.threads.net
) のアカウントも持っているのですから、個人活動だとしても X でしか告知できない状況ではないはずです。X はここ数年の数々の混乱を経てもまだユーザー数は多いですし、ハッシュタグを活用したリアルタイム感想においては他の SNS サービスより優れている面もあるため、X を活用すること自体に異論はありませんが、X が盛り上がるからといって「公式の告知を X でしか発信しない」というのは本来あり得ないことです。どういう判断の結果このような一部の人々にしか情報が届かないやり方になってしまったのか、それともそうせざるを得ない事情があったのか疑問が残ります。
さて、個々の投稿内容への言及はしませんが、ひとつだけ。
ふつおたコーナー内で取り上げられた「さのすけを探せ」は第59回(2008年10月15日配信)での『さよなら絶望先生』百五十六話「君よ知るや隣の国」に始まり、最終回(2011年8月31日配信)での『劇場版 ハヤテのごとく! HEAVEN IS A PLACE ON EARTH』&『劇場版 魔法先生ネギま! ANIME FINAL』に至るまで、計53作品が紹介されていましたが、その後もチェックを続けているリスナーがいた とは脱帽です。松岡健太先生もすぐさま反応されており こういったリアルタイム性も含めて懐かしい気持ちになりました。
本会場での観覧はここまで。本編終了後はライブビューイングと配信向けに約8分間のアフタートークが収録されており、帰宅後に視聴しました。
本イベントはてっきり『さよなら絶望先生』シリーズ全体のイベントだと思いこんでおり、実際9階の Live cafe Mixa での展示会では『俗』や『懺』に関する展示もわずかながら存在しましたが、アフタートークでの話を聞く限りあくまでアニメ一期『さよなら絶望先生』のイベントの扱いだったようですね。開催前に書いた Mixa Animation Diary Plus 『さよなら絶望先生』への期待と不安との記事内で、過去に行われた Mixa Animation Diary のイベントを一覧表にまとめていますが、改めて見てみると確かにアニメ放送の1期、2期、……を区別していることが分かります。
別途『俗』、『懺』のイベントが開催されることも可能性としてはあり得そうで、期待して待ちたいと思います。
昼の部の配信視聴感想へ続きます。
ブログ「推しとおたく」の座席所感記事(oshi-otaku.hatenablog.com
) 、さらさんの X 投稿(2022年8月) 、曾乃火さんの X 投稿(2023年3月) ↩ 戻る
2003年5月31日放送、島本和彦のマンガチックにいこう! 第87回 ↩ 戻る
アニカン 2007年9月21日 Vol.43 2007年10月号A における神谷浩史との対談。 ↩ 戻る
2007年4月11日発売、週刊少年マガジン 2007年19号掲載の第九十話「「さらっと言うな!」とメロスはいきり立って反駁した」 ↩ 戻る
2007年4月17日発売、『さよなら絶望先生』第八集 ↩ 戻る
これまでのメディア出演歴は久米田康治先生のメディア出演(w0s.jp
) を参照。なお最終更新が2022年8月なので、最近の『踊る!さんま御殿!!』出演などは反映できていません。 ↩ 戻る
<dl>
要素は会話のマークアップには不適切であるとされています。 しかしなぜ不適切なのか理由が明記されておらず、HTML 仕様を一見しただけでその真意を理解するのは困難です。
ここでは HTML4 以前や HTML5 初期の <dl>
要素の定義を振り返りつつ、会話用途への使用が不適切である理由に迫りたいと思います。
<dl>
要素<dl>
要素は HTML の黎明期から存在しており、HTML Tags(1992年)(info.cern.ch
) や Hypertext Markup Language Internet Draft(1993年) ではglosary (or definition list)
とされていました。
一方、HTML4 では「定義リスト」という主軸はそのままでありながら、応用例の一つとして会話のマークアップにも使用できるとされました。
ただ、本来は「用語」を表す <dt>
要素が会話における話者を表しても良いというのは理解に苦しむところで、どういった経緯でこのような緩和が行われたのかは気になります。
<dialog>
要素への分離HTML5 ではこれまでの「定義リスト」の意味合いがなくなり、name-value グループを表すdescription list
とされ、定義以外の用途にも使用できるようになりました。従来どおり用語の定義に使用する際は <dfn>
要素と組み合わせる例が挙げられています。
<dl> <dt lang="en-US"> <dfn>color</dfn> </dt> <dt lang="en-GB"> <dfn>colour</dfn> </dt> <dd> A sensation which (in humans) derives from the ability of the fine structure of the eye to distinguish three differently filtered analyses of a view. </dd> </dl>
また会話のマークアップとして、初期の Working Draft では新要素の <dialog>
要素 が提案されていました。現在のインタラクティブ UI を表現する <dialog>
要素 と同名ながらその用途はまるで異なり、<dt>
, <dd>
要素と組み合わせて使うことが想定されていたものとなります。
<dialog> <dt> Costello <dd> Look, you gotta first baseman? <dt> Abbott <dd> Certainly. <dt> Costello <dd> Who's playing first? <dt> Abbott <dd> That's right. <dt> Costello <dd> When you pay off the first baseman every month, who gets the money? <dt> Abbott <dd> Every dollar of it. </dialog>
このため、従来からある <dl>
要素は会話のマークアップには不適切とされたのですが、注目すべきは当初はその理由が明記されていたことです。
しかしながら会話には順序があるためとしたこの理由付けはどういうわけか2009年8月25日付けのアップデート で削除されてしまいました。
<dialog>
要素の削除その直後、2009年9月には <dialog>
要素が削除されることになりました。
その経緯は The WHATWG Blog の記事(blog.whatwg.org
) においてThe art of conversation is, like, dead and
stuff
との刺激的な見出しでまとめられています。曰く、インタビュー動画のテキスト起こしのような単純なケースでは有用であるものの、映画脚本で伝統的に採用されているフォーマットを実現することができず、会話に付随する指示などの複雑なセマンティクスも表現できないためとされており、その結果 2010年3月4日版 において <dialog>
要素は消滅しました。
そして、これに合わせて <dl>
要素の定義 には以下の一文が追加されました。これは最新の HTML Living Standard でも同じ記述が踏襲されてします。
すなわち、会話のマークアップに <dl>
要素を使うのが不適切な理由が「会話には順序があるため」から「会話は同じ名前の <dt>
要素が複数回出現しうるため」に変更されたと見なすことができます。
<dl>
要素の不適切な利用を機械的にチェックする日々のマークアップで「このコンポーネントは <dl>
要素を使うべきか、それとも <ul>
や <p>
にするべきか」と迷うことがあると思います。会話については前述のように HTML 仕様で不適切と名指しされており、会話の具体的なマークアップ方法の指南 もあるくらいですが、それ以外の場合はどのように考えれば良いのでしょうか。
例えばトップページによくある新着情報に <dl>
要素を使うのは不適切です。日付を <dt>
要素として以下のようなマークアップをしてしまいがちですが、同一日に複数の更新があるケースも存在し、日付はユニークなキーになり得ないからです。
<h2>新着情報</h2> <!-- これは不適切な例です --> <dl> <div> <dt><time datetime="2023-12-01">2023年12月1日</time></dt> <dd>○○を△△しました</dd> </div> <div> <dt><time datetime="2023-12-02">2023年12月2日</time></dt> <dd>□□を××しました</dd> </div> <div> <dt><time datetime="2023-12-02">2023年12月2日</time></dt> <dd>☆☆を◎◎しました</dd> </div> </dl>
しかし、残念ながら現状はこういった <dl>
要素の不適切な使い方を機械的にチェックできるツールは存在せず(少なくとも私は知りません)、上記のマークアップは Nu Html Checker(validator.w3.org
) や Markuplint(markuplint.dev
) でも警告されません。ただ、ちょっとした工夫でツールの力を借りることは可能です。
2023年12月20日追記Markuplint はさっそく検証ルール追加の Issue が立ちました!
<dl>
要素内で同じ名前の <dt>
要素が存在してはいけないということは、 <dt>
要素あるいはその親の <div>
要素に <dt>
要素の内容を元にした id
属性を設定してしまえば、機械的にチェックできるということでもあります。先の新着情報を例に取ると、以下のように id
属性を追加すれば機械的チェックが可能になります。
<h2>新着情報</h2> <!-- これは不適切な例で、かつ機械的チェックが可能なマークアップです --> <dl> <div id="news_2023-12-01"> <dt><time datetime="2023-12-01">2023年12月1日</time></dt> <dd>○○を△△しました</dd> </div> <div id="news_2023-12-02"> <dt><time datetime="2023-12-02">2023年12月2日</time></dt> <dd>□□を××しました</dd> </div> <div id="news_2023-12-02"><!-- ここで ID 重複エラーになる --> <dt><time datetime="2023-12-02">2023年12月2日</time></dt> <dd>☆☆を◎◎しました</dd> </div> </dl>
無論、たまたま重複する名前が存在しないときはエラーが発生しませんから、この対策に甘んじることはできません。マークアップの際にはあくまで「<dl>
要素内で同じ名前の <dt>
要素が存在してはいけない」ことを知識として知っておく必要があります。これはあくまで保険的対策としての不完全な手段の一つに過ぎませんが、「会話を <dl>
要素でマークアップする」ような誤用はたいていの場合防げると思います。
alistapart.com
) web.archive.org
) terkel.jp
) www.fmyokohama.jp
) に久米田先生がゲスト出演されました。導入編 配信の後、本日12月12日の配信で前編が配信され、後日(14日?)に後編が配信される予定です。 prtimes.jp
) 久米田先生のラジオ形式の媒体への出演は2003年の『島本和彦のマンガチックにいこう!』(電話出演)、2008年の『青春點點點』と『星夜麒航』(台湾のラジオ番組)、2011年の『さよなら絶望放送』第200回&203回(事前録音の短いメッセージ)に続くものです。
パーソナリティーのノルオブとはおそらく初対面ということもあり、トークは終始質問形式で進められ、雑誌のインタビューを見ているような感覚でした。トークの内容自体も既存のインタビューと共通するものが多いため、過去の掲載誌を片手に番組を聴くと相互補完のような形で楽しむことができます。
ということで以下、注目すべき発言ごとにこれまでのインタビューでの紹介例との比較や補足をしてみます。
小学校の壁新聞については月刊ぱふ 2006年9月号「特集 久米田康治 さよなら絶望先生」 のインタビューで存在が明かされ、『かくしごと』6巻 の「描く仕事のほんとうのところを書く仕事(25)」に詳細が書かれています。過去のトークショーではネタにした友達の実名が明かされたこともありましたが……これは書かないでおきましょう。
少年時代には他にボーイスカウトをされていたことが週刊少年サンデー 1992年30号「ガチャガチャカンパニー」のコメントで語られています。
「かってに研究しやがれBOOK」や Febri Vol.29「Febri CREATOR RECOMMEND 漫画家・久米田康治」 のインタビューなど、さまざまな媒体で話されている周知のことですね。Febri のインタビューはマンガ好きのためのマンガ家インタビュー集 に再録されています。
『行け!!南国アイスホッケー部』233話「テニスでGO」(22巻 に収録)ではテニス部に入った(不純な)動機が作中で描かれ、また『南国』より前にテニス漫画『地上げにスマッシュ』を描かれていたこともありました。
ここでは(空気を読んで?)週刊少年サンデーの漫画作品を挙げていますが、同時期のアニメとしては『銀河鉄道999』を観ていたこと、逆に意外にも『機動戦士ガンダム』はのめり込むこともなかったことが、やはり Febri のインタビューで語られています。一方でコミック・ファン 2000年8号のインタビューでは『ファースト』と『ターンエー』には強いと自称しており、実際『改蔵』ではガンダムネタも多く見られました。
プロゴルファーに興味があったとは初耳です。ひょっとして後藤可久士の『風のタイツ』はそこから来ているのでしょうか。
ちなみにプレイでなく観戦に限れば他にサッカーの趣味があることがこのマンガがすごい! SIDE-B で語られています。『改蔵』の連載初期はサッカーネタも何度かありましたね。
大学で漫画研究会に入っていた話は多くのインタビューで話されていますが、ムエタイ(キックボクシング)のことは Febri や「悔画展」の他、少年サンデー '90セレクション 前期 の作家同窓会(座談会)の中でキックボクシングのB級ライセンスを取得している話題が挙がっています。2020年の画業30周年記念トークショー(l-tike.com
) の中でも藤田先生からその話があったのは記憶に新しいところですね。
これはデビュー前後に満田拓也先生のところに2日間だけアシスタントに行った話かな……。「かってに研究しやがれBOOK」、Febri Vol.29、「悔画展」のインタビューで言及があります。
漫画家になる前に就職活動で漫画編集者を受けた話は多くのインタビューで定番ですし、トークショーではそこで赤松先生の名前を出して観客の笑いを誘うのもいつものことですが、本件に関しては『さよなら絶望先生』二三集 の「紙ブログ」も見逃せないところです。
美術教師の採用人数の話は前述の『さよなら絶望先生』二三集のほか、月刊 創 2006年6月号「【異色対談】荒川弘×久米田康治」 でも語られています。
自己肯定という単語自体は『劇場編集版かくしごと』Blu-ray 発売記念の特別インタビュー映像(kakushigoto-anime.com
) の中で出たことがあり、その時は自らを自己否定で描くタイプ
と評していましたが、それとは真逆の「自虐は自己肯定」、これは名言ですね!