こどもの国線(弾薬庫線)の長津田大カーブ先にあった工場引込線
4月に発売されたレイル No.102(www.etrain.jp
)に「こどもの国線の半世紀とその前史」(関田克孝)と題して、弾薬庫線時代からの詳細な解説記事があります。
この中で、長津田の大カーブを抜けた先にあった工場引き込み線についての解説と分岐部の写真が掲載されています。弾薬庫線の情報自体は、過去にネコ・パブリッシング社から発行された「トワイライトゾーン MANUAL」などで取り上げられたことがありますが、この引き込み線について写真付きで解説された例は(少なくとも私の知る限り)ありませんでした。
- 空中写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(
mapps.gsi.go.jp
)より、利用規約に則り転載。 - 図1で工場群の敷地を「北」「南西」「南東」の3つに区分けしていますが、これは本記事での説明のための便宜上な呼称です。また、境界線は正確なものではありません。
杉山原地区の工場群について
現在の「こどもの国」に当たる場所に弾薬庫が建造された数年後、杉山原地区に弾薬関連の工場が作られたようです。地元の郷土史にはこんな記述があります。
ここの工場名は、関田氏の記事では「昭和木材工業」とあるのですが、「こどもの国」公式サイトのこどもの国の概要(www.kodomonokuni.org
)をはじめとする複数の文献では「日本木材兵器」「日本紙工」の2つの名称が書かれています。どちらが正解なのでしょうか。
2017年5月23日追記 神奈川のなかの朝鮮 p.123 によると、「日本木材兵器」は戦後になって「昭和木工」と呼ばれていたそうです(正式に工場名が変わったのか、俗称なのかは本の記述からは判断できず)。
工場関連の年表
時期 | 出来事 |
---|---|
1942(昭和17)年 | 弾薬庫線開通 |
1943(昭和18)〜1944年頃[1] | 工場建設 |
1945(昭和20)年 | 終戦 |
1953(昭和28)年 | 朝鮮戦争休戦 |
1955(昭和30)年[2] | 北側建物跡地に長津田厚生病院(後に長津田厚生総合病院)開設 |
1960(昭和35)年以前[3] | 工場閉鎖(南西敷地の建物は引き続き存続) |
1967(昭和42)年 | こどもの国線開業、前後して引込線撤去 |
1970(昭和45)年[4] | 南東の跡地にスーパー「サンコー」(後にマルエツ)が開業 |
1973(昭和48)年[5] | 南西跡地の東急建設長津田倉庫が廃止、建物は撤去されしばらく空き地に |
1995(平成7)年 | 病院に隣接してマンション(サンヴェール長津田)建設 |
2002(平成14)年 | 南西跡地にマンション(ウォルトンズコート長津田)建設 |
2013(平成25)年 | 南東跡地のマルエツが移転のため閉店 |
- 空中写真の画像はいずれも国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(
mapps.gsi.go.jp
)より、利用規約に則りトリミングおよび角度変更のうえ転載。
閉鎖後の動き
朝鮮戦争休戦の後、工場は閉鎖されたようですが、北側の敷地には病院が建設される一方、南西の建物のうち、南北方向に長い工場棟(?)は残されました。
「続・田奈の郷土誌」の172ページには、書籍発行当時(1966年)の自治会現況図が掲載されていますが、これによると南西敷地は「東急建設長津田倉庫」、南東が「日本紙工K.K.長津田工場」となっていたようです。
空中写真を見ると、南西敷地は東急建設が撤退して更地になるまでの20年間ほどの間に、線路沿いや敷地内の東側に建物が増設されていることも分かります。更地になった後は30年間ほど放置されていましたが、2002年には跡地にマンションが建設され、現在の姿になっています。
このマンション建設前まで、線路沿いの敷地南端は、いかにも線路が分岐していたかのように鉄道柵が広がっていました。後世になって鉄道用地との境界に沿って設けられた柵だとは思いますが、これも今は線路と平行になってしまいました。
また車窓から見た様子を、以前テイチクエンタテインメント社から発売されていた「Cabシリーズ 運転室展望ビデオ 53」の映像キャプチャーより紹介します。