池上電気鉄道の貨車計画とデト1形

東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄にはあわせて8両の電動貨車と70両もの付随貨車が在籍していました。これだけの貨車を有していたのは多摩川の砂利輸送(新丸子駅発送)があったためと思われ、実際河川敷からの採取が禁止された後は1940(昭和15)年までに過半数が譲渡ないし廃車されています。

一方、池上電気鉄道は路線が多摩川に接しておらず、また省線とのレール接続がなかったため貨物輸送が存在せず、貨車は電動無蓋車のデト1形が1両存在したのみとなります。しかもこの車両は竣功届が提出されておらず、無車籍の状態だったと伝えられています。

本記事では許認可書類(鉄道省文書)を参考にしつつ、開通前の計画から貨物運輸起業廃止までの流れを追ってみます。

蒲田―池上間の開通前の車両計画

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池上電気鉄道の最初の区間である池上―蒲田間が開通したのは1922(大正11)年ですが、当初は目黒―大森間を計画していたことは周知のとおりです。その区間は1914(大正3)年4月8日に軽便鉄道法にて免許を受けたのち、1917(大正6)年6月28日に工事施行認可申請書(www.digital.archives.go.jp)が提出され[1]、そこではじめて車両に関する概要(大体の構造寸法)が書面に登場します。

車種 両数 自重 全長 定員 / 積載重量
電動客車 6両 6.5t 7.8m 40人
付随貨車(有蓋) 2両 4t 6m 6t
付随貨車(無蓋) 2両 3.5t 5.8m 6t

機関車や電動貨車は存在しませんが、電動客車で牽引するつもりだったのか、あるいは申請書に貨車ハ此際使用セザルニツキ……との記述があるため(ただし取り消し線が引かれている)、社用品輸送用に過ぎないものだったのかもしれません。これは翌1918(大正7)年3月25日に認可されたのち、7月4日の一部線路変更認可申請書(www.digital.archives.go.jp)にて電動客車数が7両に訂正されるなどの変更が行われています。

続けて7月13日には目黒不動前駅[2]より分岐して五反田駅北側で山手線を乗り越し、下大崎駅[3]に至る全長 2km 強、軌間 1,435mm の支線が計画されますが、これは電動客車5両のみで貨車の配置計画はなく、しかもその申請は却下されたため詳細は省略します[4]

9月3日には起点を大森から蒲田に変更する申請が行われますが、監督局からの指導により大森―池上間の本線は当初計画のままとし、蒲田―池上間は支線として敷設する扱いに変更されます。10月30日にはその蒲田支線の工事施行認可申請(www.digital.archives.go.jp)が提出されますが、車両は本線と同じ仕様の電動客車を2両、付随有蓋貨車を2両用意するものでした。

車種 両数 自重、全長、定員 / 積載重量
電動客車 2両 本線用と同じ
付随貨車(有蓋) 2両 本線用と同じ

それから2年後の1920(大正9)年7月21日にはそれまでの単線を複線に改めるなどの工事方法変更認可申請書(www.digital.archives.go.jp)が提出され、車両面でも変化がありました。

車種 形態 両数 自重 定員 / 積載重量
電動客車 4輪ボギー車 8両 12t 60人
電動貨車 4輪有蓋車 1両 6t 4t
付随貨車 4輪車 5両 3t 4t

ここで初めて電動貨車が登場しますが、この時点では有蓋車が予定されていました(後に実際に製造されたデト1 は無蓋車)。一部の停車場には貨物側線を有するとされていたので、この時点では小規模ながら貨物列車を運行する計画であったようです。

さらに蒲田―池上間の開業2か月前の1922(大正11)年8月19日にも工事方法変更認可申請書(www.digital.archives.go.jp)が提出され、そこでは旅客車が甲号車と乙号車に別れ、貨車も大型化されるなど若干の変更があります。

車種 形態 両数 自重 定員 / 積載重量
電動客車(甲) 4輪ボギー車 6両 ? 60人
電動客車(乙) 4輪ボギー車 2両 ? 65人
電動貨車 4輪有蓋車 1両 7t 6t
付随貨車 4輪車 5両 6t 10t

そして開業1か月前の9月4日には工事遅延のため取り急ぎ単線で竣功するとして支線単線仮使用認可申請書(www.digital.archives.go.jp)が提出され、これが9月27日に認可、10月6日の蒲田―池上間の開通に至ります。

電動貨車の製造(デト1形)

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蒲田―池上間の開通ののち、段階的な延伸を経て1928(昭和3)年6月17日には五反田まで全通、同年には新奥沢までの支線も開通しますが、その頃までに電動貨車が1両製造されています。開業前計画の有蓋貨車から無蓋貨車に変更となり、1927(昭和2)年9月に提出された車両工事施行認可申請書(www.digital.archives.go.jp)から主な仕様を記すと自重 7.5t、車体長 23尺、固定軸距 6尺6寸、連環連結器、37馬力モーター、直接制御(直並列)、トロリーポール集電とされています。

興味深いのはその用途で、認可書類には監督局側による本車輌ハ社用品運搬ニ使用スルモノトス(池上電車ハ現在貨物ノ取扱ヲナサス)との記述が見られます。付随貨車が製造されなかったことからも、実際の内情はさておき少なくとも名目上は事業用車として製造されたことが覗えます。

1928(昭和3)年3月に車両工事施行認可が出されたのち、6月には主電動機の仕様変更が申請されています。認可後の変更自体はこの車両に限らず稀に起こることであり、池上電気鉄道では他にデハ100形として認可された8両のうち後期製造の3両は貫通扉を廃止するなどの仕様変更が行われてデハ200形となったケースが挙げられます。しかし通常はその数か月後に竣功届が出されるべきところ、どういうわけか提出されず、2年後の1930(昭和5)年には鉄道省より既ニ竣功セシモノト認メラレ候處未タ竣功届提出無として至急手続きを行うよう通牒が出されてしまいます。それに対して池上側は未竣功であると回答し、それ以降書類上のやりとりは途絶えます。

日付 概要 備考
1927年9月29日 車両工事施行の認可申請
1928年3月1日 車両工事施行の認可(監第584号)
1928年6月5日 設計変更の認可申請(池発第185号) 主電動機の歯車比と電圧を変更
1928年6月14日 設計変更の認可(監第1890号)
1930年9月22日 竣功届提出の通牒(監鉄第8912号)
1930年11月28日 通牒に対する回答(池発第279号) 未竣功と回答

このように書類上は竣功届が出されていませんが、車両竣功図表が作成されており[5]、それによれば1928(昭和3)年4月の製造とあります。なお、実際のデト1 と思われる写真が記録されており、社史を含む複数の書籍に掲載されています[6][7][8][9][10]

蒲田車輛製造について

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車両竣功図表によるとメーカーは蒲田車両とあります。これは東京府荏原郡蒲田町北蒲田446番地(現:東京都大田区)にあった車両メーカー「蒲田車輛製造」を指しているものと思われます。

同社は1925(大正14)年に創立していますが、同じ場所には同年までやはり鉄道車両メーカーの「蒲田車輛製作所」が存在しました[11]。「蒲田車輛製作所」と「蒲田車輛製造」の関係性は分かりませんが、前者も1922(大正11)年に開業したばかりだったため、いずれにせよ創立から数年程度のメーカーだったといえます。

貨物運輸起業の廃止

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デト1 の製造の同年、1928(昭和3)年11月20日には貨物営業を今直ニ實施難致事情モ有として起業廃止の申請が提出されます(1929(昭和4)年1月31日許可)。

タイミングからすれば、デト1 の竣功届が提出されなかったのはこのことが関係しているのではないかと思われます。もしそうだとすると製造認可申請時の社用品運搬のためという理由付けも怪しいところで、本来は貨物列車に使用する魂胆があったのか、あるいは対外的に現車を作ってまでそういうアピールをする必要に迫られたのか……いずれにせよ当時の鉄道線電気車が軒並みトロリーポールからパンタグラフに交換される中、前述の写真を見る限り1937(昭和12)年時点においてもトロリーポールどころか、連結器も連環式のままであるため、ろくに活用されなかったものと推測されます。

脚注