駿遠電気の電化当初の車両 —主に玉川電気鉄道からの譲受について—

現在の静岡鉄道静岡清水線は駿遠電気時代の1920(大正9)年に改軌&電化が行われているのですが、当時の資料が断片的にしか残っておらず電化当初の車両はその全容がいまだ判明していません。しかしここ10年ほどで複数の研究記事が発表され、また図書館資料のデジタル化が進んだことで調査の障壁も低くなってきており、徐々に真相に近づいてきている感はあります。

昨年(2024年)、私は玉川電気鉄道(のちの東急玉川線)の開通当初の車両に関する資料調査を行い、その成果を公文書と統計資料でたどる玉川電気鉄道狭軌時代の車両(Amazon)として発表しました。その際に車両譲渡先である駿遠電気と上田温泉電軌(現:上田電鉄)の調査も行ったのですが、あくまで玉川電気鉄道の本であるため取り入れなかった部分もあります。そこで本記事では改めて駿遠電気側の視点で玉電譲渡車の動きを中心にまとめてみることにしました。なおそのような経緯があるため、本記事の内容は拙著の「第6章 改軌に伴う譲渡、改造」と重複する部分が多いのですが、一方で本記事単独でお読みいただけるように構成しております。

改軌に伴う車両の譲受

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駿遠電気の改軌に伴う車両認可の書類そのものは発見されていないのすが、その前段階である工事施行認可申請書(1920(大正9)年3月4日付)(www.digital.archives.go.jp)は国立公文書館に保管されており、改軌半年前の時点で下表の車両が計画されていたことが分かります。

車種 両数 記号番号 自重 定員/積載容積 電動機 備考
電動客車 10両 1~10 6t 40人 37.5㏋×2 玉川電気鉄道より譲受
付随客車 3両 1~3 4t 40人 玉川電気鉄道より譲受
電動貨車(無蓋車) 2両 デカ1~2 5t 4t 37.5㏋×2 台車は玉川電気鉄道より譲受
付随貨車(無蓋車) 10両 ムカ1~10 3.5t 5t

このように旅客車は玉川電気鉄道からの譲受車が予定されていたのですが、これは同時期に玉電が 1,067mm → 1,372mm へ改軌するのに伴い不要となる狭軌車両を譲り受けるつもりであったものとなります。また電動貨車は台車のみ譲受品を使用とあるのですが、玉川電気鉄道では予備の電機品2台分を保有しており、これも改軌で不要になるのでそれを活用するつもりだったものと思われます。具体的には改軌の1918(大正7)年頃に車両増備のため台車と主電動機、ブレーキ装置をアメリカより輸入したものの[1]、1919(大正8)年に到着した際には改軌が迫っていたためか活用されることなく予備品とされたもの[2]となります。

しかしながら駿遠電気の改軌は1920(大正9)年8月2日に実施されたのに対し、玉川電気鉄道は同年8月21日に暫定単線化ののち、9月3日に改軌が行われています。このため玉川電気鉄道にとっては改軌の1か月以上前に当時の在籍車22両のうち13両もの車両を放出するのは無理があったであろうことは容易に想像が付きます。そこで駿遠電気では美濃電気軌道(のちの名古屋鉄道美濃町線など)からも旅客車両を譲り受けることで、玉川電気鉄道からの譲受タイミングと車両数を調整することになりました。駿遠電気の取締役会で美濃電気軌道からの購入が承認されたのが改軌の2週間前にあたる7月18日とのことですから[3]、ギリギリのスケジュールだったのでしょう。

このような経緯を経て、旅客車は美濃電気軌道と玉川電気鉄道からの譲受、貨車は新造(電動貨車の台車のみ玉川電気鉄道から譲受の可能性)にて改軌&電化を迎えることとなります。

開通式当日の車両数

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駿遠電気の開通式典を取材した地元紙の取材記事では、開通式に株主用として10, 11, 12号、一般客用に14号が運転されたことが記されています。これは静岡民友新聞(現:静岡新聞)の1920(大正9)年8月4日の3面に掲載された「電車開通と清水驛」の記事で、式典の様子はもちろんのこと在籍車両数、それも貨車の情報まで報告されており、年度ごとの統計データでは分からない「開業初日の車両数」を記録した貴重なものとなっています。

尙ほ同電車は現在電動客車四臺と附随客車二臺及び豫備として電動客車二臺を運轉せるが豫定は五臺を運轉し静岡發朝四時十六分よりとし二十六分毎に發車する筈なるも當分は都合により時間を延ばすやも計られず

(中略)

客車は近々更らに二三臺到着する由にて貨車は無蓋十臺、有蓋五臺電動貨車二臺なりと

静岡民友新聞 1920(大正9)年8月4日 3面「電車開通と清水驛」

このうち改軌の同年に撮影されたとする10号車の写真が『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』(静岡鉄道 1989年)や『懐かしのアルバム 静岡県鉄道写真集』(山本義彦 1993年)(Amazon)に掲載されており、Brill 21E 型と見られる台車、10枚の側面窓、そしてなによりバッファーを装備している特徴からこれは玉川電気鉄道からの譲受車と思われます。一方、近年になって12号車が写り込んだ絵はがきが発見され、台車の形態などからこちらは美濃電気軌道の譲受車と推察されています[4]。(ともに短期間での改番が行われなかった前提)

これらの情報をまとめると、開通式の日にはすでに玉川電気鉄道からの譲受車が一部到着しており、しかしながら所定数は揃っておらず当面の間は運行間隔を調整(減便)する可能性があったことが分かります。そして電動客車の内訳ですが、美濃電気軌道からは D13~D17 の5両を譲り受けたというのが定説であることから[5]、開通式当日の玉電譲受車は10号車の1両と付随車2両の計3両だったのではないかと思われます。

すなわち以下のように考えられます。

車種 譲受元 開通式当日の両数 年度末の両数 駿遠電気での車号(推定)
電動客車 玉川電気鉄道 1両 6両 5~10
電動客車 美濃電気軌道 5両 5両 11~15
付随客車 玉川電気鉄道 2両 3両 不明
  • 美濃電気軌道からの譲受車は開通式までに5両をまとめて用意できた前提で作成した。美濃車が4両以下で玉電車が2両以上であった可能性も否定しきれない。
  • 玉川電気鉄道から譲り受けた車両のうち電動車の両数には諸説あるが、鉄道省鉄道統計資料の大正9年度版「車輛現在表」(dl.ndl.go.jp)には客車総数が14両とあるため、付随車と美濃電気軌道譲受車の両数を差し引いた6両と考える。

上田温泉電軌への譲渡

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定説では駿遠電気の電動客車のうち2両はほどなく上田温泉電軌(現:上田電鉄)へ譲渡されたとされています。この説の発端はおそらく鉄道ピクトリアル誌に掲載された「私鉄車両めぐり」の記事で、1921(大正10)年6月の路線開通に際して同年中に電動客車9両を玉川電気鉄道より譲受、2両を駿遠電気から譲受、さらに付随客車4両を玉川電気鉄道より譲受したとされています[6]

その記事における開通当初の電動車一覧表から重要なデータのみを抜粋します。

上田車号 製造時期 譲受時期 譲受元 旧車号
1 1907(明治40)年6月 1921(大正10)年6月 玉川電気鉄道 不明
2 不明
3 1912(明治45)年6月 不明
4 不明
5 1914(大正3)年9月 不明
6 1912(明治45)年6月 不明
7 玉川15
8 1919(大正8)年10月 1921(大正10)年9月 不明
9 1907(明治40)年6月 1921(大正10)年10月 不明
10 1921(大正10)年12月 駿遠電気 不明
11 1921(大正10)年10月 不明

しかしこのデータにはいくつか不自然な点が見られます。

  • 玉川電気鉄道の改軌から半年以上が経っているのにも関わらず、玉電から上田への譲渡は6月に7両、9月と10月に1両ずつと3回に分けて行われたことになっている。
  • 玉電狭軌時代の電動客車は開通当初の1907(明治40)年に10両が用意され、その後1912(明治45)年に2両、1914(大正3)年に3両が増備されているため、上表のように1912(明治45)年製が4両あるのは数が合わない。
  • 同様に1919(大正8)年製の車両は玉電には存在しない。

ところで駿遠電気の旅客車両数の変遷を「鉄道省鉄道統計資料」の「車輛現在表」でみると、大正9年度(dl.ndl.go.jp)は14両、定員計560人だったのが、大正10年度(dl.ndl.go.jp)には13両、定員計570人へと変化しています。その内訳は明記されていないものの、65人乗りボギー車2両が導入された一方で40人乗り四輪車3両が消えたとしか考えられません。また駿遠電気の営業報告書では1922(大正11)年10月時点の四輪電動客車の両数が8両となっていることから[7]、抜けた3両は付随客車ではなく電動客車であったことが分かります。よって駿遠電気から上田温泉電軌へ譲渡された車両は定説の2両ではなく3両と考えます。

これらの考察を元に、以下の仮説を立ててみます。

  • 上田温泉電軌6~7号の製造時期は5号車と同じ1914(大正3)年9月が正しい
  • 上田8号は玉電の予備台車に車体を取り付けて車両として完成させたのち譲渡された
  • 駿遠電気から上田温泉電軌へ譲渡された車両は3両である(上田9~11号)

このように仮定すると、開通と同時に導入された7両は玉川電気鉄道における製造年月順に上田の番号を付与されたことになり、あとは譲渡時期の順に 8, 9……と素直な付番が行われたと考えることができます。10号車の譲渡時期のみ不自然さが残りますが、何かしらのトラブルで遅延が発生したか、単なる書類上の記録ミスがあったか、といったところでしょうか。

一方でこの仮説だと玉川電気鉄道の電動客車15両のうち、駿遠電気に6両、上田温泉電軌に7両(予備台車活用の8号車分を除いた両数)が譲渡されたものの、残る2両分の行方が分からないことになってしまいます。もともと駿遠電気では10両を譲り受ける予定が土壇場で変更になったため、玉川電気鉄道にとっては譲渡先が見つからず廃車となった可能性も充分に考えられますし、あるいは駿遠電気の電動貨車に活用されたとする考察もあります[8]。上田温泉電軌では予備台車に新製車体を組み合わせた可能性がある一方で、既存の完成車の車体を破棄をしたことになるため、そのような回りくどいことをするのかという疑問が残る一方、木造車体の時代なので状態の悪い車体を破棄する事例は存在し、玉川電気鉄道にとっては新製から最長13年しか経っていないとはいえあり得ないことではないとも思います。この点については自分の中でも納得のゆく結論が出ていないので、さらなる考察を見てみたいものです。

脚注

  • 1.

    玉川電気鉄道の「第30期 事業報告書」(1917(大正6)年12月~翌年5月)より ↩ 戻る

  • 2.

    玉川電気鉄道の「第32期 事業報告書」(1918(大正7)年12月~翌年5月)より ↩ 戻る

  • 3.

    RAILFAN 2002年9月号 No.599「駿遠電気の車両の謎」(築地成一郎)p.12 より ↩ 戻る

  • 4.

    鉄道史料 2016年7月号 No.149「駿遠電気の創業期の車両の解明にむけて 訂正」(阿部一紀)pp.57–58 より ↩ 戻る

  • 5.

    『RM LIBRARY 129 名鉄岐阜線の電車—美濃電の終焉—(上)』(清水武 2010年)p.14 より ↩ 戻る

  • 6.

    鉄道ピクトリアル 1964年11月号 No.164「私鉄車両めぐり〔59〕上田丸子電鉄(終)」(小林宇一郎)pp.60–61 より ↩ 戻る

  • 7.

    駿遠電気の「第7回 営業及決算報告書」(1922(大正11)年5月~10月)より ↩ 戻る

  • 8.

    『玉川電気鉄道狭軌時代の車両と駿遠電気初期の車両について』(車歴研究会 2016年、コミケット頒布)p.103 より ↩ 戻る