大倉精神文化研究所の建設用インクラインと太尾駅の貨物側線
東横線大倉山駅の現行駅名の由来となった大倉山記念館(o-kurayama.com)は1932(昭和7)年に大倉精神文化研究所として建てられたのですが、その建設工事に際しては太尾駅(当時)から山上までインクラインが敷設されています。
研究所を創設した大倉邦彦は五島慶太との親交があり、すなわち東京横浜電鉄との関わりも深く、駅員無配置で転轍器もない停留場に過ぎなかった太尾駅に貨物側線を設けて暫定の停車場とし、建築資材である砂利やセメントの輸送を行っています。当時は工事用に軌道を敷設するのは珍しいことではなく、隣の綱島温泉駅(現:綱島駅)付近にあった土砂運搬軌道[1]をはじめとして鉄道線と平面交差していたものも複数存在したくらいですが、今回取り上げる軌道はありふれた手押しトロッコではなく原動機を使ったインクラインであること、そして鉄道線と連携した輸送を行っていたことの2点において注目に値するものと思います。
同様に東横線と連携輸送をしていたトロッコといえば多摩川の砂利採取軌道(新丸子駅接続)が有名ですが、戦後まで残ったそれとは異なり、本インクラインは建設工事用の宿命で短期間しか存在せず、またその痕跡が皆無なことから存在すらほとんど知られていない状況です。郷土史や建築の分野では稀に言及が見られるのですが、鉄道趣味界で本軌道を紹介した文献を存じません。
私自身この軌道については調査途中であるものの、現時点で判明した情報をいったん取りまとめる次第です。
※本記事の掲載写真はいずれも2026年8月27日に撮影(散歩がてらスマートフォンのカメラ機能による)
写真、映像
大倉精神文化研究所において1995年に建設工事の様子を記録した16mmフィルムが発見され、その一部を修復して1998年にビデオ作品が制作されました。また港北ふるさとテレビ局により編集された映像が2010年に公開され、トロッコが走っている映像がいつでも見られるようになりました。
さらに昨年(2025年)になって大倉精神文化研究所自身が映像を公開しています。これはおそらく16mmフィルムをノーカットでデジタル化したものと思われ、これまでの「作品」として編集された映像では割愛されたシーンも含まれている、たいへん貴重なものとなっています。
また研究所には建設工事の様子を記録した写真が多く残されており、その中には軌道が写り込んでいたり、軌道そのものを主役として写したであろうものも複数枚見られます(下記リストの角括弧内数字は研究所における資料番号)。
- ガラス乾板分焼付 1–50 [6758]
- ガラス乾板分焼付 51–100 [6759]
- ガラス乾板分焼付 201–250 [6762]
- (資料名なし) [6865]
- 研究所等建物写真 [6876]
これらの映像や写真からは以下のことが分かります。
- 軌道は単線だが、途中区間で分岐している
- 山麓側には側線の存在が確認できる
- 山上側には平坦区間があり、複数の側線が分岐し、通常のトロッコのように人力による手押し運転が行われていた(これらはインクライン区間とは独立した軌道の可能性もある)
- 妻・側板付きの無蓋車と妻・側板なしの長物車が存在した(ただし妻・側板は取り外し式だった可能性もある)
- 複数の車両を連結して運転された(最長で4両編成が確認できる)
- 客車の存在は確認できない(式典の来賓と見られる人々が軌道敷を徒歩で登っている写真が残されているくらいなので、人を乗せる車両は存在しなかったものと思われる)
またタウン誌『とうよこ沿線』の20周年を記念して制作された書籍「わが町の昔と今 港北区版」(2000年3月発行)には1930(昭和5)年7月に駅前で撮影された写真が1枚掲載されており、同誌の Web サイト(更新停止により現在はアーカイブサイトとして公開中)でもとうよこ沿線 写真が語る沿線 NO.20 大正・昭和初期の大倉山(toyoko-ensen.sakuraweb.com)で閲覧できます。写真の角度的にレールは見えないのですが、トロッコの車両らしきものが写っており、軌道は太尾駅の貨物側線の高さでは終わらずさらに坂の下まで延びていたことが分かります。
敷設時期
| 時期 | インクラインの出来事 | 東京横浜電鉄および太尾駅の出来事 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1926(大正15)年2月14日 | 丸子多摩川―神奈川間が開通 | 第32期営業報告書 | |
| 1926(大正15)年2月14日 | 太尾駅開業[2] | 鉄道省文書[3] | |
| 1926(大正15)年6月〜7月 | 省線直通を見越したフト80形貨車が竣功 | 鉄道省文書 | |
| 1927(昭和2)年2月1日 | 菊名駅を介して省線との貨車直通運転開始 | 第34期営業報告書 | |
| 1929(昭和4)年5月頃 | 太尾駅に上屋新設 | 鉄道省文書[4] | |
| 1929(昭和4)年11月30日 | 唯一の電気機関車であるデキ1が竣功 | 鉄道省文書[5] | |
| 1929(昭和4)年12月14日 | 軌道工事に着手 | 『心の使』第2号 | |
| 1929(昭和4)年12月16日 | 太尾駅を仮停車場へ変更する認可申請提出 | 第40期営業報告書 | |
| 1929(昭和4)年12月22日 | 軌道が完成し試運転を実施 | 『心の使』第2号 | |
| 1929(昭和4)年12月25日 | 太尾駅の貨物側線がおおむね完成 | 『心の使』第2号 | |
| 1930(昭和5)年1月20日 | 太尾駅の仮停車場への設備変更が認可 | 第40期営業報告書 | |
| 1931(昭和6)年7月頃 | 使用終了(?) | 大倉研の支出原簿 | |
| 1932(昭和7)年2月16日 | 太尾駅を停留場へ復旧する認可申請提出 | 鉄道省文書[6] |
軌道の使用開始時期は『心の使』第2号(1930(昭和5)年1月発行、富士見會)に詳細な記録が残されています。これによると1929(昭和4)年12月14日に工事着手し、そのわずか8日後には試運転を実施したとありますから、この事実だけでも簡素な設備だったことが分かります。後述する写真や映像を見ても、全線に渡って未舗装の道路上にただレールと枕木を敷いただけのように見え、自動車の通行は考慮していなかったように思います。
同時期に太尾駅にも貨物側線を仮設する工事が行われており、それまで停留場だった駅を仮停車場へ設備変更する認可申請が12月16日に提出、ひと月後の翌年1月20日に認可されたようです[7]。
施工業者である竹中工務店との契約書によると、当初は工期を1929(昭和4)年12月1日から翌年10月31日までの10か月間としていたのですが[8]、昭和恐慌の影響もあり[9]、実際のところは1930(昭和5)年10月には建物のコンクリート工事が終了したのみで[10]、軌道はその後もしばらく使われていたようです[11]。
この延期期間中は竹中工務店に対して3か月ごとにインクライン関連費用を支払っており(損料と動力費で3か月分が805円50銭)、その請求書と領収書が残されています[12]。これによると皇紀2591年すなわち1931(昭和6)年の1月、4月、7月のそれぞれ末日に支払いが行われているのですが、10月の支払い記録がないことから夏には役割を終えたものと見られます。
一方、太尾駅の貨物側線は研究所建物が完成間近となった1932(昭和7)年2月になって線路設備を復旧(すなわち貨物側を撤去)するとともに以下の工事を行う認可申請が提出されています(信号機移設以外は届出として処理)。
- 本屋新設
- 上屋新設
- 信号機移設(本屋新設に伴うもの)
- 駅名称を「大倉山」に変更
インクラインの使用終了後も残されていた貨物側線の最後の仕事は、もしかしたら駅本屋の建設工事だったのかもしれませんね。
線路、車両
竹中工務店が大倉精神文化研究所に対して発行した見積書が残されており、インクラインへの言及があるものは以下の3点があります(下記リストの角括弧内数字は研究所における資料番号)。
- 『大倉精神文化研究所御新築 第一期工事費見積書』「公道山上敷地間材料運搬機械設備 十ヶ月間 損料」(1929(昭和4)年10月16日) [6428-2]
- 『大倉精神文化研究所御新築 第一期工事費見積書』「公道山上敷地間材料運搬機械設備 十ヶ月間 損料」(1929(昭和4)年10月23日、見積東支巳第5133号) [6428-3]
- 『見積書』「但大倉精神文化研究所御新築工事用インクライン設備損料其他費用(壹ヶ月分)」(1930(昭和5)年11月10日、見積東支午第5923号) [6428-18]
これらの資料に書かれている情報のうち鉄道ファン的に興味の対象となるレール、動力、車両のデータを抜粋します。
| 設備 | 1929(昭和4)年10月16日 | 1929(昭和4)年10月23日 | 1930(昭和5)年11月10日 |
|---|---|---|---|
| 軌道用レール | 12ポンド、540間 | 12ポンド、320間 | 12ポンド、220間 |
| 軌道用ポイント及び分岐線 | 8台 | 4台 | ? |
| 索條用モーター | 15馬力、1台 | ? | 15馬力、1台 |
| ロープ誘導車 | 竪形52個、横形70個 | 竪形32個、横形42個 | ? |
| 台車 | 安全装置付き2台、普通4台 | 安全装置付き2台、普通4台 | 9台 |
1929(昭和4)年10月の見積もりは当初予定のもの、1930(昭和5)年11月は前記のとおり当初想定期間に工事が終わらなかったため、改めて月額の損料を見積もったものとなります。1929(昭和4)年10月は短期間に2つの見積もりを出しているのですが、古い方(10月16日)の見積書は表紙タイトルに赤色で取り消し線が引かれていること、翌週に改めて同じ様式の見積書が発行されていることから不採用になったものと見られるため、以降の本文では言及しません。
レールの総距離は1929(昭和4)年10月23日の見積書では320間(582m)、1930(昭和5)年11月10日は220間(400m)とされています。後者は太尾駅から建物正面までの距離とおおよそ一致するのですが、前者は側線や分岐線を含んだ数値なのでしょうか。距離が減少しているのに対して車両数はむしろ増えているのも不思議なところです。
ポイント(分岐)は1929(昭和4)年10月23日の見積書では4台とされています。前記の映像からは山麓側に少なくとも2か所、途中区間で1か所の分岐が確認できます。ただし山上の平坦区間には多数の分岐がある写真が残されていますから、それを含めればポイントの数はもっと多かったはずです。4台という数字はインクライン区間だけのものか、あるいは平坦区間は後から敷設された可能性も考えられます。
「ロープ誘導車」とは聞き慣れない単語ですが、単線で総延長も短い路線に74台もの車両を用意したとは考えにくく、また単位が「台」ではなく「個」とされているので、これは車両ではなくレールの中央に設置された誘導滑車を指したものと思います。
車両(台車)は見積書どおりなら当初は6両で後に増備されたことになります。山上の平坦線で多くの台車が往来している写真が残されているため、9両よりも多くの車両が活躍していたとも考えられるのですが、ポイントの数と同じくこれはインクライン区間だけのものか、あるいは車両はインクライン区間と共用であり、たまたま多くが平坦線にいたタイミングで撮られた写真ということであれば最大9両だったとしても違和感はありません。いずれにせよ時期ごとの正確な車両増減は不明です。
脚注
-
1.
【鉄道省文書】東京横浜電鉄 東横寅第1669号 1926(大正15)年10月26日「綱島溫泉構内線路横斷假輕便線敷設許可申請書」(
www.digital.archives.go.jp) ↩ 戻る -
2.
東京横浜電鉄線の第1期開通時、太尾駅は用地買収の関係で急遽開業を6か月延期する認可申請が提出(
www.digital.archives.go.jp)されています。しかしもともと2月11日を予定していた路線開通が認可の関係で14日に延期され、その一方で太尾駅は結局14日に開業した届出が後になって提出されていますから、結局のところ工事は間に合ってしまい、事実上は路線開通と同時に駅も開業できた流れになります。 ↩ 戻る -
3.
【鉄道省文書】東京横浜電鉄 東横寅第438号 1926(大正15)年2月24日「太尾停留場使用開始届」(
www.digital.archives.go.jp) ↩ 戻る -
4.
【鉄道省文書】東京横浜電鉄 東横巳第1035号 1929(昭和4)年5月28日「停車場設備並名稱變更御届」(
www.digital.archives.go.jp) ↩ 戻る -
5.
【鉄道省文書】東京横浜電鉄 東横巳第2499号 1929(昭和4)年11月30日「車輛竣功届」(
www.digital.archives.go.jp) ↩ 戻る -
6.
【鉄道省文書】東京横浜電鉄 東横申第38号 1932(昭和7)年2月16日「太尾假停車場ヲ停留場ニ設備及ヒ名稱變更認可申請書」(
www.digital.archives.go.jp) ↩ 戻る -
7.
仮停車場化(貨物側線新設)に関する許認可書類は国立公文書館にある「鉄道省文書」の簿冊内には存在しないのですが(認可日ベースで1929(昭和4)年12月〜翌年4月中旬の書類がざっくり抜けており焼失などに見舞われたものと思われる)、東京横浜電鉄の営業報告書においてそのような認可申請を提出した事実だけは判明しています。また認可日は1932(昭和7)年2月に停留場へ復帰する際の認可申請書類の本文においても確認できます。 ↩ 戻る
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8.
【大倉精神文化研究所所蔵資料】建築請負契約書 対竹中工務店(
okuraken-lib.opac.jp) ↩ 戻る -
9.
『建築史学』第50号 2008年3月号「大倉精神文化研究所の設計過程」(安田徹也) ↩ 戻る
-
10.
『大倉精神文化研究所の建築史的研究』(安田徹也 2010年) ↩ 戻る
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11.
『文化時報』1931(昭和6)年6月27日の記事「完成に近い精神文化の殿堂」では
貢献せんとして居る建物の外観は最早總て出來上り明春四月迄に内部の設備や莊飾を完了せしめるので工を急いで居るが小丘下の太尾線から建築其他の諸材料植木に至るまでインクライン式にトロで上から卷き上げて居る
と報告されており、建物が完成した後も植木などの輸送に活用されていたことが分かります。 ↩ 戻る - 12.



