東京横浜電鉄モハ1000形の竣功日の謎

東急電鉄のデハ3500形といえば今では目黒線3000系の中間電動車を指しますが、今回は1939年に製造された初代デハ3500形(当時のモハ1000形)の話です。この車両の製造当初の動向には不可解な点があります。

登場まもない頃のモハ1009(「東京横浜電鉄沿革史」第六編 建設(dl.ndl.go.jp) より)オリジナル画像

まずは基本的な事項として、モハ1000形の特徴をおさらいしてみましょう。

  • 1939年に川崎車輛(現:川崎車両)で22両が製造
  • 車体形状はモハ510形を踏襲
  • モハ510形以前の車両と比べて窓の高さが拡大
  • 湘南電気鉄道(現:京浜急行電鉄)への乗り入れを画策し、改軌に備えて長軸台車を履用
  • 電動カム軸式の制御装置を搭載し、一部車両には多段式制御装置を採用
  • 東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄がそれぞれ発注を行い、目黒蒲田電鉄側では目蒲本線での使用計画もあったようだが、実際は全車が東横本線に投入

これらを念頭に置いたうえで、鉄道省申請書類のデータや当時の目撃情報と照らし合わせてゆきます。

  1. 竣功日
  2. 竣功直前の設計変更
  3. 竣功前の運転実績

竣功日

§

モハ1000形の竣功届が鉄道省に提出されたのは1939年10月12日であり、東急側の入籍日もその日付の扱いとなっています。ところで目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を合併し、新生の東京横浜電鉄となったのが同じ1939年10月であり、より正確には10月1日に合併が行われ、商号変更が行われたのが10月16日となります。すなわちモハ1000形の竣功は両社の合併と商号変更の狭間の時期に行われ、実態はともかく書類上の話をすれば竣功時は全車が目黒蒲田電鉄の所属であったということになります。おっ、すでに怪しい雰囲気が漂ってきましたね……。

モハ1000形・全22両の竣功届(目黒蒲田電鉄の会社名で提出されていることに注目)オリジナル画像

竣功直前の設計変更

§

竣功より数か月さかのぼり、1939年5月には車体や台車、その他一部機器の設計変更申請がなされています。

項目 変更前 変更後 備考
自重 36.5t 37.5t 目蒲の当初申請時は 37.0t
車幅 2,743mm 2,740mm 室内幅は変更なし
車高 4,204mm 4,200mm
室内高さ 2,450mm 2,380mm
台車固定軸距 2,200mm 2,250mm
歯車比 61:19 (3.21) 62:20 (3.1)
主制御器 日立 PB-200(電空カム) 日立 MC-200(電動カム)
パンタグラフ 日立製作所 東洋電機 C-6[1] 日立製も仕様は同一

変更前のうち自重 36.5t、台車固定軸距 2,200mm などの項目はモハ510形と同一仕様であり、歯車比 61:19 もモハ510形のうち川崎車輛製のものと一致していますから、元々はモハ510形と似た仕様で計画されていたものが、実際には別形式を与えるにふさわしい車両に変更されたことが分かります。

モハ1000形は設計段階では東京横浜電鉄が10両(1001–1010)、目黒蒲田電鉄が12両(1011–1022)を発注していましたが、この仕様変更は両社ともほぼ同じ日付で申請が行われており、東横側ではその直後に他鉄道所属車両運転認可申請が出されています。これは目蒲車が竣功した暁には東横線内でも運転を行うというものです。

最初の設計申請から竣功届までの流れをまとめると下表のようになります。

内容 東京横浜電鉄 目黒蒲田電鉄
設計申請 1937年10月22日・東横丑第1868号(10両) 1937年10月22日・目電丑第1362号(12両)
設計認可 1938年4月25日 1938年4月25日
設計変更申請 1939年5月1日・東横卯第1397号(10両) 1939年5月11日・目電卯第435号(12両)
他社所属車運転申請 1939年5月11日・東横卯第1544号(12両)
設計変更認可 1939年10月2日 1939年10月2日
他社所属車運転認可 1939年10月2日
竣功届 1939年10月12日・目電卯第1131号(22両)

こうしてみると明らかに違和感がありますね。車体サイズや台車にまで変更が生じているのに対して設計変更の申請は竣功のわずか5か月前であり、この短期間に設計をやり直して完成に至るとは考えにくく、さらにその認可のわずか10日後には竣功届が出されているのもおかしなところです。

実際はもっと早期の段階で設計変更が行われたか、あるいはもともと設計変更後の仕様を予定していたところ、何らかの事情によりあえて在来車(モハ510形)の仕様で当初の申請を行った(つまり「設計変更」とは書類上の辻褄合わせに過ぎなかった)可能性すら考えられます。

竣功前の運転実績

§

ここまでは申請書類のデータを追ってみましたが、1939年10月竣功のデータに疑問が残るいくつかの資料や体験談があります。

  • 社史である「東京横浜電鉄沿革史」の p.511(dl.ndl.go.jp) には1939年5月の新造と記載
  • 坂戸直輝氏が1939年5月以降、断続的にモハ1000形(東横車、目蒲車とも)を東横線で目撃[2]
  • S.Usui 氏が1939年5月にモハ1000形(東横車)が元住吉車庫に留置されている様子を撮影[3]、電装品は装備され行先板・急行板まで掲げられており完成状態に見える
  • 宮松金次郎氏が1939年8月27日にモハ1000形(東横車)が乗客を乗せて東横線を本線走行している様子を撮影[4]

坂戸氏の目撃談を引用しましょう(モハ1000形に関する部分のみを抜粋)。

【昭和14年】

  • 5月15日(月) 渋谷で1002–1001,渋谷―日吉,定員120人,自重は書いてなかった.
  • 5月19日(木) 渋谷で新車モハ1003–モハ1002を見た.
  • 5月31日(水) 渋谷で1005を見た.どうも改造らしい.
  • 7月4日(火) 渋谷でモハ1011を見た.
鉄道ピクトリアル 1994年12月臨時増刊号(No.600)「〜昔日の東急〜 私の鉄道日記から」(坂戸直輝) p.142

「東京横浜電鉄沿革史」に関しては公式の社史でありながらデータに誤りが多く、ひとつの記述だけをもって鵜呑みにすることはできません。なにせ車両データのみならず、会社合併に関する重要な日付すら誤っている始末ですから[5]

S.Usui 氏や宮松氏の写真についても撮影日データが誤っている可能性は考慮しなければなりません。

一方で坂戸氏の目撃情報は日記形式で記録されたものであり、細かな日付の誤記はあれど[6]、竣功前であるはずの1939年5月にモハ1000形が動いていたことは間違いないでしょう。営業運転か試運転かは明言されていませんが、5月15日の日記では渋谷―日吉ともあるので、これが行先方向板のことだとすれば営業運転だった可能性が高いと思います。7月4日にはモハ1011を目撃されていますが、車番の記録が間違っていなければ東横車のみならず目蒲車すらも竣功届提出前かつ他社線運転認可前に東横線へ入線していたことになります。

脚注