目黒蒲田電鉄ト5形の竣功時期と諸元の謎
目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄は最大で70両の付随貨車を所有しており(鉄道線のみの両数)、そのほとんどが新製ないし新車同然の譲受車となります。そのなかでト5形の2両のみは1880~1890年代に製造された老朽貨車を譲り受けたもので、しかも譲受に際していくつかの不可思議な点が残されています。
譲受認可から竣功までの3年半以上の空白
まずは目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄における付随貨車の導入時期を見てみましょう。
| 番号 | 所属 | 前歴 | 購入/譲受認可申請 | 認可 | 竣功 |
|---|---|---|---|---|---|
| ト1–4 | 目蒲 | ― | 1922年7月7日 | 1922年12月12日 | 1923年2月22日 |
| フト1–4 | 目蒲 | ― | 1923年8月24日 | 1923年11月15日 | 1924年4月12日 |
| ト5–6 | 目蒲 | 上州鉄道 | 1923年10月23日 | 1923年10月26日 | 1927年6月30日 |
| ト21–25 | 目蒲 | 播丹鉄道 | 1925年2月23日 | 1925年3月23日 | 1925年5月31日 |
| フト31–35 | 目蒲 | ― | 1925年4月20日 | 1925年4月30日 | 1925年6月17日 |
| フト41–70 | 東横 | ― | 1925年4月21日 | 1925年5月7日 | 1925年11月30日 |
| フト81–90 | 東横 | ― | 1926年5月24日 | 1926年5月31日 | 1926年6月7日 |
| フト91–100 | 東横 | ― | 1926年5月24日 | 1926年5月31日 | 1926年7月20日 |
ほとんどの車両は認可申請の数日~数か月後に認可され、その後半年以内に竣功しているのですが、上州鉄道から譲り受けたト5–6 のみは認可から竣功まで3年8か月もの期間が空いています。すなわち譲受認可申請は丸子―蒲田間の延伸直前という比較的早期に提出されていながら、竣功はその後に認可された付随貨車より後、大井町線の第1期(大井町―大岡山)開通直前の時期まで遅れているのです。
これは以下の可能性が考えられるでしょう。
- 譲受ののち東横線や大井町線の建設工事に使用し、大井町線の第1期線完成を待って入籍した
- 何らかの理由で譲受が遅れた
以下、それぞれの可能性を考察します。
建設工事使用説
ト5形は螺旋連環連結器を装備していた一方、目蒲電鉄の電動貨車(デワ1、デト1–3)は1925(大正14)年から1927(昭和2)年にかけて自動連結器化されています。最後に改造されたデト2 の設計変更の竣功届が提出されたのが1927(昭和2)年5月31日ですから[1]、ト5形は譲受の竣功届が提出された時点で連結できる電動車が存在しないことになります。
すなわち通常の“車両”のように本線走行させる用途としては明らかに時期が不自然であり、ト5形の本来の導入目的は貨物列車用ではなく神奈川線(現:東横線)や大井町線の建設工事用であったとは考えられないでしょうか。
神奈川線の建設工事が始まったのは1925(大正14)年1月10日であり、同年7月2日には鉄道省から10形蒸気機関車2両を購入しているのですが、この時点では東京横浜電鉄の付随貨車(フト40形)は完成していませんでした。クラウス号の愛称で知られるこの蒸気機関車を購入したのは鉄道省における自動連結器の一斉交換直前の時期であり、引き渡し時点ではまだ螺旋連環連結器を装備していたものと思われるので、フト40形竣功までの短期間は無改造のままさらにト5形を目蒲電鉄から借り入れ、それを牽いていた可能性はあるでしょう。
もっとも10形機関車にしろト5形貨車にしろ、この時点では車両としての入籍はしておらず、連結器改造や目蒲⇔東横間の貸し借りに関する許認可書類は存在しないためあくまで可能性のひとつとしての想像に過ぎないことではあります。
またいずれにせよ、ト5形の譲受認可申請書提出から神奈川線建設工事開始までは1年以上の空白があり、その間の動向は説明が付きません。以下に関連する出来事をまとめます。
| 時期 | 事業者 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1923(大正12)年10月23日 | 目蒲 | ト5–6 の譲受認可申請を提出 |
| 1923年11月1日 | 目蒲 | 丸子―蒲田間が開通(目蒲線全通) |
| 1925(大正14)年1月10日 | 東横 | 他区間に先がけて多摩川橋梁の建設工事を開始[2] |
| 1925年7月2日 | 東横 | 路線建設工事用に蒸気機関車2両を購入(門司鉄道局15, 17)[3] |
| 1925年7月下旬 | 鉄道省 | 自動連結器へ一斉交換(本州、九州) |
| 1925年11月30日 | 東横 | 東横電鉄の付随貨車が竣功(フト41–70、当初から自動連結器) |
| 1926(大正15)年2月14日 | 東横 | 丸子多摩川―神奈川間が開通 |
| 1926年7月18日 | 目蒲 | 大井町線大井町―大岡山間の建設工事開始[4] |
| 1927(昭和2)年5月31日 | 目蒲 | デト2 の自動連結器化工事が竣功(目蒲、東横の電動貨車が自動連結器に統一) |
| 1927年6月30日 | 目蒲 | ト5–6 が竣功 |
| 1927年7月6日 | 目蒲 | 大井町線大井町―大岡山間が開通 |
譲受遅延説
ト5形の譲受で不審な点は竣功時期だけでなく、車両そのものの諸元にもあります。ト5 とト6 の2両は来歴が違なる車両であり、車体寸法や軸距も違いがあるところ、目蒲電鉄では同一形式にまとめられたばかりか書類上は諸元も同一とされていたのです。
両車の来歴は中原鉄道(1922(大正11)年3月に上州鉄道へ商号変更)の提出した許認可文書(鉄道省文書)のほか、1900~1910年代にかけて鉄道作業局や日本鉄道、鉄道院が発行した図面集(「Type of Wagon」「貨車略図」「貨車形式図」)で辿ることができます。
- 官設鉄道ト8グループ → 官設鉄道ト9115形9141号 → 上州鉄道ト1号 → 目黒蒲田電鉄ト5形
- 日本鉄道乙31号形 → 国有鉄道ト9183形9187号 → 上州鉄道ト2号 → 目黒蒲田電鉄ト5形
鉄道省時代の番号でいうト9141 は4枚側、自重4.31英トン、車体長17′10″、固定軸距8′0″、一方ト9187 は3枚側、自重3.84英トン、車体長18′0″、固定軸距9′0″ と差異があり、許認可文書においても両車は単なる番号違いではなく諸元の異なる車両としてとくに注意を払って区別されています。
上州鉄道における使用認可に際しては、提出した図面(竣功図表)において自重を逆に表記してしまったのみならず、寸法も鉄道省側の車両台帳の記載と相違があるとして監督局側から照会が入っており、それに対して会社側が再三の催促にも関わらずなかなか修正図面を提出できなかった様子が記録されています。
| 時期 | 事業者 | 文書番号 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 1921(大正10)年8月25日 | 中原 | 鉄道省より払い下げ | |
| 1922(大正11)年1月23日 | 中原 | 発第3号 | 使用認可申請を提出 |
| 1922年2月3日 | 監第171号 | 使用を認可 | |
| 1922年8月1日 | 上州 | 発第78号 | 竣功届(竣功図添付)を提出 |
| 1922年8月17日 | 監第4074号1 | 竣功届に関して照会 | |
| 1922年12月11日 | 監第4074号2 | 照会の回答催促 | |
| 1922年12月22日 | 上州 | 発第78号1 | 目下図面作製中と回答 |
| 1923(大正12)年3月13日 | 監第4074号4 | 図面を至急提出せよと事実上の催促 | |
| 1923年3月19日 | 上州 | 発第78号2 | 図面を数日中に提出すると回答 |
| 1923年3月27日 | 上州 | 発第78号3 | 修正した竣功図提出 |
竣功図作成の過程で数字の記載を誤っただけのことならばすぐに修正できるはずで、最初の照会から修正図面を提出して最終的に解決するまで7か月もの期間が掛かっているのは何かしらの事情があったものと推察されます。鉄道省文書の例に漏れず、肝心の竣功図そのものは現存しないため、具体的な修正内容が今となっては分からないのは残念なところです。
そして図面問題の解決からわずか5か月後の1923(大正12)年8月には目黒蒲田電鉄へ譲渡する売買契約が取り交わされています。
| 時期 | 事業者 | 文書番号 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 1923(大正12)年8月20日 | 上州/目蒲 | 売買契約 | |
| 1923年10月12日 | 上州 | 発第101号 | 譲渡認可申請を提出 |
| 1923年10月23日 | 目蒲 | 目電第319号 | 譲受認可申請を提出 |
| 1923年10月26日 | 監第3212号 | 上州鉄道に対して譲渡を認可 | |
| 1923年10月26日 | 監第3213号 | 目蒲電鉄に対して譲受を認可 | |
| 1927(昭和2)年6月30日 | 目蒲 | 目電第230号 | 竣功届(竣功図添付)を提出 |
目蒲電鉄の竣功届に添付されていたはずの竣功図もやはり現存しないのですが、1928(昭和3)年の改番と1935(昭和10)年の廃車に関する届出書類には竣功図が残されています。不思議なのは、そこではまるで2両とも同一諸元かのように1両分の諸元しか書かれていないのです。
ここで側板が3枚であることや軸距が9′‐0″であることなど、一部の点は鉄道省ト9187と共通性が見られるものの、自重や車体寸法はト9141ともト9187とも異なるのです[5]。そしてなにより監督局側がなぜ問題視しなかったのか謎が残るところです。上州鉄道における竣功時には前述のようなやり取りがあったのに対して、諸元の異なる車両を同一諸元扱いとしてしまうのはより大きな問題のはずで、この点を見過ごすとは思えません。
とすると、竣功図どおりに現車も改造されたのでしょうか。しかしそれならば設計変更に関する許認可文書が残されているはずですし、寸法や軸距が変わるほどの大改造(事実上の新製)が行われたとすれば、竣功届の提出からわずか8年後(1935年)に腐朽甚シク使用ニ不堪候ニ付
[6]として廃車されるのも不自然です。
まとめ
ト5形に関して謎が残る点をまとめます。
- 中原鉄道(上州鉄道)が1921(大正10)年8月に鉄道省より払い下げた2両の無蓋貨車(ト1–2)は、竣功届の提出時に図面の修正を求められたが、再提出まで7か月もの期間が掛かっている。
- 上州鉄道の図面問題が解決したわずか5か月後には目黒蒲田電鉄へ譲渡する契約が取り交わされた。
- 目黒蒲田電鉄では譲受認可から竣功まで3年8か月もの期間が空いている。この間、監督局との(設計変更等の)文書のやりとりは確認できない。
- 目黒蒲田電鉄では後の竣功図表において、諸元の異なるはずの2両を同一諸元としており、監督局からも問題視されていない。
鉄道事業者によっては書類と実態が異なる例は往々にして存在したようです。法令無視をものともしない朝倉軌道の伝説[7]は極端としても、近隣の池上電気鉄道ですら開通時の車両確保のドタバタや、現車が存在しながら監督局からの催促にも未竣功扱いで通したデト1形の例など眉をひそめたくなる事例が散見されるのに対して、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄は提出した文書に対しての照会や催促は皆無で、優秀な部類であったことが当時の文書を見るだけでも伝わってきます。
そのような性格の会社だからこそ、なおのことト5形の不自然さが際立つところです。そもそもなぜ1880~1890年代に製造された老朽貨車を譲り受けることにしたのかという点からしても、歴代の東横系鉄道車両の中でも解明すべき課題がもっとも多く残されている車両といえるでしょう。
脚注
-
1.
【鉄道省文書】目黒蒲田電鉄 目電第188号 1927(昭和2)年5月31日「車輛竣功御届」(
www.digital.archives.go.jp) ↩ 戻る -
2.
『東京急行電鉄50年史』(東京急行電鉄 1973年) p.105 ↩ 戻る
-
3.
【鉄道省文書】鉄道省 倉丑発第1276号 1925(大正14)年7月4日(
www.digital.archives.go.jp) ↩ 戻る -
4.
『東京急行電鉄50年史』(東京急行電鉄 1973年) p.120 ↩ 戻る
-
5.
具体的な差分はト5形譲受前の前歴と諸元の比較表を参照。 ↩ 戻る
-
6.
【鉄道省文書】目黒蒲田電鉄 目電亥第724号 1935(昭和10)年5月30日「貨車廃止届」(
www.digital.archives.go.jp) ↩ 戻る -
7.
鉄道ピクトリアル 1997年9月号 No.642「朝倉軌道気動車探究記【前編】―ある軌道の1930年代―」および翌月号の【後編】(湯口徹) ↩ 戻る
