堀之内軌道(西武軌道)の開業前に入線した蒸気車両

蒸気時代の概要

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1963(昭和38)年に廃止された東京都電杉並線の元となった路線は1921(大正10)年に開通しているのですが、前史としてそれより10年以上前の1910(明治43)年に車両が搬入され、試運転が行われていたことが知られています。

誤解されがちなのですが、このとき軌道が一部敷設されたのは後に開通した淀橋―荻窪間ではなく、中央東線の北側に位置する荻窪―田無間となります。工事半ばで建設が中止された鉄軌道は全国に数あれど、レールと車両まで準備しておきながら中断され、後に別の区間を開業した事例となれば他にそうそう類を見ないのではないでしょうか。

杉並線廃止時に書かれた記事ではさらに遡る1897(明治30)年に鍋屋横町―荻窪間が敷設されたとか[1]、淀橋―鍋屋横町間で試運転のみ行った[2]といった言説も見られるのですが、当時の新聞報道等ではそのような事実は確認できず、そもそも会社設立前の試運転や営業運転は考えにくいところです。路線の特許を受けた時期を開業と混同しているのではないかと思うのですが、噂の出典は気になるところです。

この時は電気鉄道ではなく軽便機関車が付随車を牽引する方式であり、用意された車両も蒸気機関車、客車、有蓋貨車、無蓋貨車の4種類だったようですが、正式な営業運転前のことであるためか車両構造に関する許認可資料が残されておらず、また写真も不鮮明なものが1枚発見されているのみで、どのような車両であったのかはほとんど分かっていません。

また軌道の敷設については1910(明治43)年7月に実施された試運転の段階で田無、荻窪間は八月中に開通に至るべしと[3]と報道されている一方、それから1年以上経った1911(明治44)年末の時点における視察では全区間のうち2/3程度しか完了していないと報告されていますから[4]、会社側は報道記者に対してずいぶんな希望的観測を伝えていたのではないかと思われます。

そしてこの頃から会社は資金に行き詰まり払い込みも困難になる状況となったため、工費削減のため軌条を45ポンド(20kg)から25ポンド(11kg)へ変更することとなり、せっかく敷設した45ポンドレールを取り外して売却してしまいました。ところが代わりの25ポンドレールを購入することすらおぼつかない有様で、さらには機関車と客車まですべて売却する窮地に立たされることになります。もっとも車両売却に関しては資金調達の意味合いだけでなく、同時期に動力を電気に変更することにした要因もあるのかもしれません。

いずれにせよ事前に準備された車両はほとんど使われないまま機関車と客車は売却、貨車は放置されることとなったのですが、その後の消息が判明している車両は18両中わずか4両のみの状況です。

時期 内容
1907(明治40)年10月31日 「堀之内軌道株式会社」設立
1907(明治40)年11月5日 工事施行認可申請を提出
1909(明治42)年7月17日 工事施行認可
1910(明治43)年1月8日 荻窪―田無間の敷設工事に着手
? 機関車、客車、貨車が入線
1910(明治43)年7月7日 試運転式典実施
1910(明治43)年7月8日 本線試運転実施(既成区間のみ)
1910(明治43)年7月14日 「堀之内軌道」から「西武軌道」へ商号変更
1911(明治44)年末 この時点で荻窪―田無間の敷設工事は2/3程度の進捗と報告
1912(大正元)年9月25日 軌条変更申請を提出(軽量レール化)
1912(大正元)年12月23日 動力変更申請を提出(電気鉄道へ変更)
1912(大正元)年12月27日 軌条変更許可
1913(大正2)年6月17日 玉川電気鉄道に売却された客車4両が彼の地で使用開始(検査証交付)
1913(大正2)年11月21日 動力変更許可
1915(大正4)年10月 この時点で機関車と客車はすべて売却済み、貨車は放置
1921(大正10)年8月26日 淀橋―荻窪間が開通

工事施行認可申請時の諸元

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蒸気運転時代に用意された車両の仕様や両数は諸説あります。まず1907(明治40)年に提出された工事施行認可申請に関連した「線路工事方法書」の計画[5]では、市街地を走行するものであるから煤煙の噴出を避けるために機関車は動力に重油またはコークスを使用するとあります。また客車(付随車)は長さ20尺(6,061mm)、幅5尺5寸(1,667mm)、定員約30人で手ブレーキのみを装備するとされています。貨車の言及はありません。

一方で同時期ないし近い時期に作成されたと思われる「工費予算書」では客車の寸法がやや異なる数値となっています。

車種 両数 長さ 固定軸距
機関車 8両 16′‐0″ 6′‐0″ 4′‐6″(0‐4‐0配置)
客車 12両 22′‐0″ 6′‐0″ 8′‐0″
有蓋貨車 無蓋車と合わせて10両 16′‐0″ 6′‐0″ 8′‐0″
無蓋貨車 有蓋車と合わせて10両 16′‐6″ 6′‐0″ 8′‐0″

とくに興味深いのは両数で、「線路工事方法書」で軽便機関車ハ附随車一輌ヲ牽引運轉スルモノトスとあるのに対し、客車の方がはるかに多いことです。

実際に入線した車両とその消息

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1910(明治43)年になって軌道敷設の工事が開始され、その完成を待たずに車両が搬入されて一部区間で試運転まで実施されたものの、工事が完成することはなく無駄な投資となってしまいました。1915(大正4)年10月25日付けの西武軌道視察報告(復命書)によればその時点で機関車1両と客車7両は売却済みで、貨車10両のみが残存と報告されているため、これら計18両が実際に入線したものと判断できます。

機関車

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軌道敷設工事中の段階で東京月島鉄工所において機関車10両が製造されていると報道されているのですが[6]、前述のとおり実際に入線したのは1両のみとなります。試運転時に撮影された写真が当時の雑誌に掲載されており[7]、不鮮明ながらB形(0‐4‐0配置)のサイドタンク車であることなどいくつかの特徴が分かります。

入線した1両の売却先は判明しておらず、また残り9両の消息も不明です。

客車

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入線した7両のうち4両は玉川電気鉄道に売却されたことが同社の営業報告書で判明しています[8]。1920(大正9)年9月には同線が1,372mm軌間に改軌されたため新造車に置き換えられ、1921(大正10)年6月17日に開通した上田温泉電軌(現:上田電鉄)へ譲渡されました。その際「車輌構造認可申請書」に車体寸法や内装などの情報が記載されており[9]、あくまで譲渡後のデータではあるものの貴重な資料となっています。

上田温電ではあまり使用されずに1929(昭和4)年に4両とも廃車となってしまうのですが[10]、その後も倉庫や駅待合室として活用されたため複数の写真が残されており、とくに高松吉太郎氏が撮影した樋之沢駅の廃車体は車体構造がよく分かる記録となっています[11][12]

貨車

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車両購入当時の雑誌記事には製作中の機關車初め有蓋、無蓋の兩車及び客車(三十人乗)十數䑓は旣に竣成したれば本年九月上旬より運轉を開始する豫定なりととの記述があります[13]。すなわち内訳は不明ながら計画どおり有蓋貨車と無蓋貨車が両方製作されたものと見られます。

前述のとおり機関車と客車が売却された後も1915(大正4)年秋の時点で貨車10両は残されていたと報告されているのですが、その後の消息は不明です。

脚注